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マッスル北村「限界に挑戦した男」の伝説エピソード[全文掲載]①

2000年8月3日、突然この世を去ったマッスル北村。その衝撃から20年経った今でも多くの人の心に彼の魂は生き続けている。まさに北村克己が口癖のように語っていた「肉体は滅んでも魂は永遠に生き続ける」そのものではないだろうか――。本誌では忘れえぬマッスル北村の伝説を若い読者の方にも語り継いでいきたい。

文:浦田浩行(IRONMAN2020年9月号掲載)

<本記事の内容>
ボディビルとの出会い
才能の開花
愛犬クロの存在
北村旋風
芸能界への進出
希望の地、アメリカ
突然の訃報
おわりに

まだインターネットが普及する前の1980年代初期、当時はボディビルについて何か知りたかったら専門誌を読むか、あとはジム仲間との情報交換ぐらいしか方法がなかった。そんな時代に、口コミだけで、ボディビル界をワクワクさせたボディビルダーがいた。

例えば「東大の北村はプルダウンだけで60セットもやっている」「東大の北村は生卵を1日30個飲んでいる」「東大の北村は巨大な鍋のおじやを全部食べるまで寝ない」などなど……。そんな、ちょっと信じられないような情報が飛び交っていた。

当時のボディビルファンたちは、真偽が定かでないような噂話でも喜んで飛びついた。それくらい新しい情報に飢えていたし、自分の糧になるならどんな話題でも貴重だった。しかし、「東大の北村」というボディビルダーについては、噂だけが先行し、実際に見た人はとても少ないという、ちょっとミステリアスな存在だった。

そんな口コミだけで注目の的になっていた東大の北村が、弱冠22歳でついに社会人コンテストのステージに現れたとき「あれは噂ではなく本当かもしれない」と思った人も多かったはずだ。それくらい他を圧倒するようなバルクを、わずか2年という短期間で作り上げていた。北村克己という計り知れない才能を持った新人の登場に多くの人が熱狂し、どこに行っても彼の話題で持ちきりだった。

そんな、ボディビルダーとして将来を嘱望された北村だったが、39歳という若さで惜しまれながら急逝した。あれから20年もの歳月が経過したこともあって、彼の活躍どころか、存在すら知らないという人が増えたのも当然だろう。

今回は、北村克己というボディビルダーが存在したことを全く知らない人のために、あるいは、知っている人でも改めて思い出してもらうために、彼の辿った足跡を紹介していきたい。

ボディビルとの出会い

北村克己は1960年10月、東京練馬区で北村家の長男として生まれた。彼の父親は東京藝術大学を首席で卒業し、学校の美術教師として家族を養うかたわら、彫刻家として数多くの躍動的な彫像を残している。代表作は旭川市の彫刻美術館や花咲スポーツ公園、旭川空港や中標津空港をはじめ、練馬区の石神井図書館や早宮公園などにも設置されている。

小学校時代は水泳、中学時代は自転車、器械体操などに夢中になっていた北村だが、高校に入ると本格的に身体を鍛えることに目覚める。自転車や長距離走に加えて一千回を超える拳立て伏せをこなしたり、今で言うところのパルクールのようなことをやって日々、体力の限界に挑んだ。勉学においても、中学時代の全国模試ではトップクラスで、進学校として名高い東京学芸大学附属高校に進む。 現役での大学進学を目指していたが、第一志望の東京大学は不合格となり浪人を決意。予備校に通うことになる。結局、二浪して東大に入るが、浪人1年目には慶応大学医学部、防衛医大に合格していたことも付け加えておきたい。

予備校時代にボクシングを開始し、ゲームセンターのパンチングマシンを何台も破壊するなど彼のパワーあふれるパンチ力はボクシングジムのコーチも認めるところだった。彼自身もこれこそ生涯をかけてやり遂げるスポーツだと思い始めた矢先、スパーリングでコーチを失明寸前にまで追い込んでしまったことがきっかけとなり継続を断念。ボクシングの代わりになるものを探していたころ、近所の練馬区総合体育館のトレーニングルームを訪れ、生まれて初めてボディビルダーを目の当たりにして衝撃を受ける。しかも「腹筋のキレがいい」という理由で大会出場を勧められ、わずか55㎏の体重しかなかったのに2週間後の学生コンテストへの出場を決意する。 このときのボディビルに対する印象について「重要度の割合から言うとトレーニングが1で食事が9だと教えてくれたんだけど、なんて怠慢なスポーツなんだと思った」と言って彼は笑っていたが、「でも実際にやってみると、たった1㎝太くするのがどれほど大変かが分かって、ボディビルにのめり込んでいった」とも語っている。

才能の開花

二浪して東京大学の理科Ⅱ類に進学したが、講義に出席したのは最初の1週間ほど。明けても暮れてもボディビルのことしか考えられず、トレーニング漬けの毎日だった。

1981年6月、勧められるまま出場した初めての学生ボディビルコンテストでは全く歯が立たず、あまりの悔しさに決勝審査を待たずに会場をあとにした。このコンテストを振り返って彼は後にこう語っている。

「あのときの無残な敗北があったから今がある。もし表彰台に上がっていたら、ボディビルに魅力を感じないまま去っていた」。

コンテストで惨敗した翌日から早速アルバイトを開始した。警備員や引っ越し作業、プール監視員で稼いだ金はすべて大量の卵、ツナ缶、プロテインになって消えていった。それから5ヵ月後の11月には東日本学生コンテストに出場し、8位に入賞している。ちなみに、この大会で上位に入った選手の中には、後にバイセップスマンとして人気者になる高橋重信(3位)や、抜群のプロポーションでミスター日本でも活躍することになる大河原久典(9位)がいた。

翌1982年の関東学生コンテストでは学連の部に出場し、仕上がりは甘かったが驚くほどバルクを増やして一気に3位まで順位を上げた。そして、ボディビルを本格的に開始して2年目の1983年、彼の才能は一気に開花した。もはや学生のレベルをはるかに超えた筋量で関東学生のステージに立ち、オープンの部で圧勝。胸、背、腕、腹の部分賞とモストマスキュラーも獲得した。

勢いに乗った彼はこの2ヵ月後、社会人コンテストデビュー戦となるミスター関東で、85㎏の体重を残して5位に入賞してしまう。さらに、その3週間後のミスター東京では3位に入り、日本のボディビル界に北村克己の名前が一気に広まっていった。

1984年は、7月のジャパンチャンピオンシップス(世界・アジア代表選抜)で榎本正司に敗れミドル級2位、ミスター東京でも井口吉美智に敗れて2位に終わったが、ミスター関東では念願の社会人初タイトルを獲得。ちなみに、同大会でミス関東のタイトルを獲得したのが飯島ゆりえだった。

 

愛犬クロの存在

この頃、東京大学を中退し、東京医科歯科大学へ進学。もちろんこのときは医学の道に進むことに何の迷いもなかったが、後に休学し1989年に中退してしまうことになる。

東京医科歯科大を中退したのは、ボディビルを中途半端に終わらせたくなかったからだが、実はもうひとつ、医学の道を断念したくなる理由が彼にはあった。医師になる過程で動物実験は避けられず、それに対する違和感がずっと心に残っていたのだ。彼にとって動物はかけがえのない存在であり仲間だった。犬や猫はもちろん鳥や爬虫類、それこそ昆虫に至るまで、北村は生き物の命を大切にした。「いつも周りの動物たちに助けられた」と、自分が飼っていた動物たちのことを話してくれることもあった。中でも格別な存在だったのは、本誌に連載していた「ボクの履歴書」にも登場する愛犬、クロではないだろうか。

話は前後してしまうが、実は北村にも苦悩の日々があった。一時期はボディビルコンテストから遠ざかり、芸能界に入ったといっても身体を張るような仕事ばかりで、ケガをすることも多かった。人に夢を与えるどころか、それこそボロ雑巾のようになって帰宅するような毎日にひどく失望していた。自暴自棄になり連日浴びるように酒を飲んで全てを忘れようとしていた。彼はその当時のことを、ゼスチャーを交えながら「もうね、ここまで、そう首まで酒に浸かるぐらい飲んでた」と、尋常ではなかった飲酒量を思い出して苦笑していた。 そんな彼の目を覚まさせたのは、もう1ヵ月も寝たきりの年老いたクロだった。自宅の階下で、目当ての酒が見つからずに苛立っていた北村を心配したクロが、最後のメッセージを伝えに来たときのことをこう綴っている。

「自分の目を疑った。あるはずのない光景をそこに見た。階段の中腹に死力をふりしぼって一段、また一段と下りてくるクロの姿があったのだ。(中略)奇跡を目の当たりにして我に返ったボクは直感した。クロは最後の力を燃やし尽くしてボクの酒を止めに来たのだと。止めどなく涙が溢れた。その翌朝、クロはボクの腕の中で息を引き取った。誰が止めても、胃から血を吐いてもやめられなかった酒。あの日以来、ボクの飲酒癖は嘘のように止まった。クロの目が閉じて、代わりにボクの心の目が開いた」。

それから彼は、芸能活動もほどほどにして、何かしらのコンテストに目標を置くことも必要ではないかと考えるようになるのだが、そのことはもう少し後に出てくるので、ひとまず話を戻したい。

北村旋風

1985年は彼にとって飛躍の年となった。7月のジャパンチャンピオンシップスでは無理な減量がたたってミドル級5位と振るわなかったが、8月のミスター東京での優勝を皮切りに、9月の全日本実業団優勝、ミスターアジア・ライトヘビー級優勝と立て続けにタイトルを手にした。そのため、月刊ボディビルディング誌(以下月ボ)1985年10月号に掲載された「今年のミスター日本の栄冠は誰の頭上に」のコーナーでは小山裕史、朝生照雄、小沼敏雄など、当時の国内トップクラスの選手とともに写真付きで北村克己の名前も挙がるほど期待される存在になっていた(1985ミスター日本の結果は10位。優勝は小沼敏雄)。

ちなみに、月ボ1985年11月号では早くも表紙を飾り、当時は彼の躍進ぶりを「北村旋風」と表現していた。さらに付け加えておくと、この少し前の1983年に小沼敏雄がミスター東京、ミスター関東、全日本実業団を総なめにしたことを驚きを持って評価した当時の月ボは「風雲児、小沼」と呼んで賞賛していた。古くからのボディビルファンがこの時代のボディビルコンテストを高く評価しているのは、北村や小沼のような大型新人の登場が背景にあるのかもしれない。

芸能界への進出

ここまでは順風満帆といえる活躍を見せた北村だが、1986年に運命が大きく変わる。7月に宇都宮で行われたジャパンチャンピオンシップスは、その3ヵ月後に予定されていた東京でのミスターユニバースの選抜大会を兼ねていた。そのためハイレベルの優勝争いとなった。

大学を休学してまでこの大会にかけていた北村は当時、日本ではまだ普及していなかったカーボローディングを実践した。いつもは短期集中的な減量でコンテストに臨んでいたが、このときは1ヵ月前に減量を終え、カーボローディングで自分の身体がどのように変化するかを試しながら、残りの期間の調整を進めた。

最終的に82・5㎏まで絞り込まれた北村の身体には余分なものは何ひとつなく、まさに過去最高の筋量と仕上がりで、優勝候補の石井直方を抑えてライトヘビー級を制した。予選、決勝を通して全ての審査員が1位票を投じたパーフェクトスコアでの勝利だった。

しかし、この年から導入されたドーピング検査で陽性反応が検出され失格。優勝は剥奪され、ミスターユニバースへの出場資格も失ってしまった。北村は、もちろんこの結果に異議を唱えたが、結果が覆ることはなかった。

結局、北村がJBBFのステージに再び姿を見せることはなかったが、それでも彼を支持するファンは依然として多く、セミナーやデモンストレーションを行えば常に多くの人が詰めかけた。どんな小さな仕事の依頼も断らず、丁寧に対応していく彼の人柄は多くの人を引きつけ、JBBFのコンテストから遠ざかったあともファンは増え続けた。

彼の人気を支えていたのは、もちろん日本人離れした巨大な筋肉を作り上げた者への憧れであることは間違いない。しかし、彼の本当の魅力は、溢れるほどの包容力にあるような気がする。それは、彼のセミナーやデモンストレーションに参加したり、あるいは彼の近くでトレーニングしたことがあれば分かってもらえるだろう。彼がよく口にしていた「肉体と心の調和」は、ただの言葉のあやではなく、実際に多くの人に影響を与え、彼を中心に巨大な輪ができつつあった。

芸能界に活路を見いだそうとした北村だが、先にも触れたとおり、当時はボディビルに対する偏見も多く、芸能界特有のしがらみもあって苦戦が続いた。その一方で、コンテストビルダーとして新しい活躍の場を探してた彼は、ヨーロッパを拠点としていたWABBA連盟のコンテストに何度か挑戦している。

しかし、選手層は想像以上に厚く、国内では筋量やスケールの大きさで定評のあった北村でもなかなか太刀打ちできなかった。例えばエドワード・カワック、ブライアン・ブキャノン、ティエリー・パステル。彼らはWABBAからIFBBに移籍してオリンピアなどのプロのステージで活躍した選手たちだ。この顔ぶれを見ても、当時のWABBAのレベルは、アマチュアであっても、相当に高かったのではないだろうかと想像ができる。

それでも彼は、1990年に大阪花博で開催されたWABBA世界大会ではミディアムクラスで4位、1999年にニュージーランドで開催されたWABBAアジアパシフィックではオーバーオールで優勝している。

希望の地、アメリカ

1999年は、北村にとって新たな挑戦の場を見つけた記念すべき年となった。WABBAアジアパシフィック大会の直後、ついにボディビルの本場であるアメリカ・カリフォルニアの地を踏んだ彼は、NPCトーナメント・オブ・チャンピオンズのヘビー級で3位に入る。アマチュアコンテストとはいえ、当時、日本人がアメリカの重量級で上位入賞するのは前例のない快挙だった。

北村はこのときの渡米を振り返り「希望の地、アメリカ」と題して本誌にこんな一文を綴っている。「無限の可能性を信じてやまぬボディビルの歴史を築いてきた偉大な魂の軌跡がアメリカにはあった。その息吹に触れたとき、ボク自身の心の底から、鍛え続けることの喜びとともに、無限のエネルギーが湧出してくるのを感じた。このエネルギーを〝希望〟と呼ばずにはいられないボクの心をどうか察していただきたい」。

ボディビルのメッカを存分に満喫した彼は「これからはトレーニングに本腰を入れ、アメリカのコンテストで自分がどこまで通用するのか挑戦してみたい」と意気込みを語っていた。

北村克己のトレーニングや食事シーンを収めた「世紀末バルクアップ1999」が話題になったのもこのころだった。大切なことをひとつも漏らさず伝えたいという思いから北村自らが徹夜して編集した。圧倒されるほどの高重量トレーニングはもちろん、生の鶏肉をシェイクして飲んだり、牛乳瓶の底のようなメガネをかけて登場してくるなど、ありのままを紹介した映像は衝撃的で、多くのボディビルファンの度肝を抜いた。

突然の訃報

2000年5月末からNPCトーナメント・オブ・チャンピオンズ(8月26日)への再チャレンジに向けて減量を開始した北村だが、調整も終盤にさしかかった8月3日、減量による低血糖で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。突然の訃報に、誰もがにわかには信じられなかった。「本気になった北村克己がまたコンテストで見られる!」と、多くの人が期待に胸を膨らませていた矢先の出来事だった。

亡くなる4日前の7月30日に行われた群馬県GPCコンテストでのゲストポージングが彼の最後の仕事になった。写真でも紹介されているとおり、前年と比較してもはるかに筋量アップしているのが分かる。しかも、パンプアップなしでステージに上がったらしく、それでもこの迫力である。

もし、この筋量を残したまま順調に調整が進んでいたとしたら、ボディビルダーとして過去最高の北村克己が見られたのは間違いないだろう。実際、亡くなる1週間前、編集部に電話をかけてきてくれた彼は最後にこう語っていた。「もう本当に感謝。みんなのおかげで今年はいい状態で大会に出られそう!」。普段は謙遜する彼だが、このときは少しだけ自信を覗かせていたのが印象的だった。

ちなみに、5月30日から8月1日にかけて撮影されたコンテストに向けての記録映像は、後に編集されて「限界への挑戦」というタイトルで発売されている。トレーニングや食事はもちろん、高脂肪ダイエットの解説や、ダイエット法の切り替えによる身体の変化など貴重な記録を残している。

また、最後となった群馬でのゲストポーズも収録されている。ちなみにこのとき、迫力あるポージングで会場を沸かせた北村だが、実は群馬に向かう途中の新幹線で意識を失い、病院で点滴を受けていた。それでも「まだ間に合うかもしれない」と、点滴を引きちぎって会場に向かったという。

彼の性格からして、自分を待ってくれている人たちがいると思うと、いても立ってもいられなかったのだろう。時間ギリギリに会場入りした彼は、まるで何事もなかったかのように笑顔でステージに登場し、集まったファンを喜ばせた。自分の体調を顧みない行動の善し悪しは別として、どんな状況であっても全力を尽くそうとする彼のひたむきな姿は、やはり多くの人を魅了するのかもしれない。

おわりに

彼が生きていれば今年で還暦、一体どんな人生を歩んだだろうか。生前、彼は「ボディビルだけでも道は長い。でも、一生涯ただのボディビルダーだけで終わってしまわないように、ひとつ先の夢、目的を持っていきたい」と語っている。知的限界、精神的限界、そして肉体的限界を極めたかった彼の終着点はどこだろうか。

記録と記憶を頼りに彼の歩んできた道のりを駆け足で紹介したが、その激動の人生に改めて圧倒されながらも、今さら寂しい感情も抑えられずにいる。

そんなとき、ミスター・アジアに向けての過酷な減量を綴った一文が目にとまった。

「たとえこの命果てても、不完全燃焼という後悔だけは残したくなかった。己の肉体と精神の限界点を見極めたならば、あとは天命にまかせるのみであり、ジャッジが決めることである」。彼にとってはコンテストの勝敗よりも、まず己に克つことが重要であり、心の中に巣くう弱心に負けることが何よりも屈辱だったようだ。

北村克己を理解する上で、もうひとつ紹介しておきたい一文がある。無類の読書家だった彼のお気に入りはリチャード・バックの「かもめのジョナサン」だった。その中の有名なフレーズを引用しながらこう綴っている。

「今でもその一節をときおり口ずさむ。『重要なのは食べることではなく飛ぶことだ。いかに速く飛ぶかということだ』。当時のボクの心の中を自由の風が吹き荒れた。ただし、それは社会や体制からの自由を意味しない。自己の心に潜む限界意識からの自由だった。あらゆる自己の限界に挑みたいという強い希求であった。自分の中に潜む無限の可能性を信じていた」。彼の人生は、自分の限界を見極めたら、次は必ずそれを乗り越えていくことの繰り返しだった。

しかし、不幸にも、自分の弱さを克服した代償として限界を超えてしまった。それでも、妥協することなく己に打ち克った彼は、もしかしたら無念という思いよりも、この上ない満足感を抱いて旅立ったのかもしれない。

最後に、どうか皆さんには、北村克己という全ての限界を超えて伝説になったボディビルダーがいたということを次の世代に伝えていただければと切に願っている。

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