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マッスル北村「限界に挑戦した男」[全文掲載]①

2000年8月3日、突然この世を去ったマッスル北村。その衝撃から20年経った今でも多くの人の心に彼の魂は生き続けている。まさに北村克己が口癖のように語っていた「肉体は滅んでも魂は永遠に生き続ける」そのものではないだろうか――。本誌では忘れえぬマッスル北村の伝説を若い読者の方にも語り継いでいきたい。

文:浦田浩行

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まだインターネットが普及する前の1980年代初期、当時はボディビルについて何か知りたかったら専門誌を読むか、あとはジム仲間との情報交換ぐらいしか方法がなかった。そんな時代に、口コミだけで、ボディビル界をワクワクさせたボディビルダーがいた。

例えば「東大の北村はプルダウンだけで60セットもやっている」「東大の北村は生卵を1日30個飲んでいる」「東大の北村は巨大な鍋のおじやを全部食べるまで寝ない」などなど……。そんな、ちょっと信じられないような情報が飛び交っていた。

当時のボディビルファンたちは、真偽が定かでないような噂話でも喜んで飛びついた。それくらい新しい情報に飢えていたし、自分の糧になるならどんな話題でも貴重だった。しかし、「東大の北村」というボディビルダーについては、噂だけが先行し、実際に見た人はとても少ないという、ちょっとミステリアスな存在だった。

そんな口コミだけで注目の的になっていた東大の北村が、弱冠22歳でついに社会人コンテストのステージに現れたとき「あれは噂ではなく本当かもしれない」と思った人も多かったはずだ。それくらい他を圧倒するようなバルクを、わずか2年という短期間で作り上げていた。北村克己という計り知れない才能を持った新人の登場に多くの人が熱狂し、どこに行っても彼の話題で持ちきりだった。

そんな、ボディビルダーとして将来を嘱望された北村だったが、39歳という若さで惜しまれながら急逝した。あれから20年もの歳月が経過したこともあって、彼の活躍どころか、存在すら知らないという人が増えたのも当然だろう。

今回は、北村克己というボディビルダーが存在したことを全く知らない人のために、あるいは、知っている人でも改めて思い出してもらうために、彼の辿った足跡を紹介していきたい。

ボディビルとの出会い

北村克己は1960年10月、東京練馬区で北村家の長男として生まれた。彼の父親は東京藝術大学を首席で卒業し、学校の美術教師として家族を養うかたわら、彫刻家として数多くの躍動的な彫像を残している。代表作は旭川市の彫刻美術館や花咲スポーツ公園、旭川空港や中標津空港をはじめ、練馬区の石神井図書館や早宮公園などにも設置されている。

小学校時代は水泳、中学時代は自転車、器械体操などに夢中になっていた北村だが、高校に入ると本格的に身体を鍛えることに目覚める。自転車や長距離走に加えて一千回を超える拳立て伏せをこなしたり、今で言うところのパルクールのようなことをやって日々、体力の限界に挑んだ。勉学においても、中学時代の全国模試ではトップクラスで、進学校として名高い東京学芸大学附属高校に進む。 現役での大学進学を目指していたが、第一志望の東京大学は不合格となり浪人を決意。予備校に通うことになる。結局、二浪して東大に入るが、浪人1年目には慶応大学医学部、防衛医大に合格していたことも付け加えておきたい。

予備校時代にボクシングを開始し、ゲームセンターのパンチングマシンを何台も破壊するなど彼のパワーあふれるパンチ力はボクシングジムのコーチも認めるところだった。彼自身もこれこそ生涯をかけてやり遂げるスポーツだと思い始めた矢先、スパーリングでコーチを失明寸前にまで追い込んでしまったことがきっかけとなり継続を断念。ボクシングの代わりになるものを探していたころ、近所の練馬区総合体育館のトレーニングルームを訪れ、生まれて初めてボディビルダーを目の当たりにして衝撃を受ける。しかも「腹筋のキレがいい」という理由で大会出場を勧められ、わずか55㎏の体重しかなかったのに2週間後の学生コンテストへの出場を決意する。 このときのボディビルに対する印象について「重要度の割合から言うとトレーニングが1で食事が9だと教えてくれたんだけど、なんて怠慢なスポーツなんだと思った」と言って彼は笑っていたが、「でも実際にやってみると、たった1㎝太くするのがどれほど大変かが分かって、ボディビルにのめり込んでいった」とも語っている。

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佐藤奈々子選手
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