格闘技

【追悼】大道塾塾長 東孝の最後の取材記事と本人からのメッセージ

大道塾塾長の東孝氏が4月3日14時35分に胃がんのため死去した。昨夏から末期の胃がんの診断を受けて闘病中だったという。この原稿はFight&Life2021年2月号(2020年12月23日発売号)に掲載されたもの。昨年10月、昨夏に発売された山崎氏の評伝の発売を記念して、かつて総本部道場で共に汗を流した山崎照朝氏(格闘技評論家)、佐藤勝昭氏(佐藤塾宗師)、東孝氏(大道塾塾長)が集い、旧交を温めた座談会となる。誌面には東塾長から「空手を通じて培ったもの」というテーマの原稿も寄せていただいた。実はこの企画は、めったにない東塾長からの要望で急遽実現したもので、完成した雑誌を見て大変喜んでいただいたという。いま思えば、東塾長は自らに死期が迫っていることが分かっていたのかもしれないーー。東孝氏のご冥福を心よりお祈りいたします。(Fight&Life編集部)

取材・文・撮影:川俣天骨

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左から山崎照朝(格闘技評論家)、佐藤勝昭(佐藤塾宗師)、東孝(大道塾塾長)

佐藤 山崎先輩、この度は出版おめでとうございます。
東 タイトルがすごく印象的ですね、『力石徹のモデルになった男』って。
山崎 これは梶原一騎が言ったんですよ。タイトル的にはおいしいよ。
東 自分もこの前購入して読んでいると昔のことをいろいろ思い出しまして、今回、山崎先輩、佐藤先輩と久々に会って昔話でもしたいなと思いお誘いした次第です。

──先生方3人は同時期に総本部で稽古していたことはあるんですか?
東 それはないんじゃないかな?時期がずれてる。
佐藤 自分はよく山崎先輩には稽古をつけてもらいました。全日本大会に出る前とかもかなり鍛えられましたね。
山崎 佐藤とは彼の兄貴を俺が知っていて、それからの仲だから付き合いは長いが、東は最初は早稲田から出稽古に来てたんだったかな?
東 はい。最初行った時、先輩が組手の時に「何でもいいから来いよ」っていうので、自分はとにかく思いっきりガンガン行ったんですよ。そしたら蹴る度に肘を落されて脛がボコボコになりました。終わった後、脚が倍ぐらい腫れあがりました(笑)。ひどい人だなって思いました(笑)。

──その当時の師範代はどなたですか? 山崎先生も師範代をされていたのでしょうか?
山崎 俺は師範代でも何でもないよ。その当時は加藤先輩(加藤重夫)、藤平先輩(大沢昇)だったね。
東 俺の時は佐藤、岸、大石、磯部の各先輩と仲座さん、東谷さんたちだった。

──先生方は大山倍達総裁と組手をされたことはありますか?
東 ないない! 館長が組手やってるの見たことないな。あの映画の時かな、5人掛け? あの時、俺は館長が組手で動く姿を初めて見た。
山崎 俺の時はもう館長が50代で膝が良くなかったからな。でも1回、長谷川(一幸)とやってるのを見たことがある。館長は構えのまま長谷川を壁まで追いつめたからな。あれはやっぱり凄いなって思った。館長はあの身体だからこっちが蹴ったって殴ったって効きやしないよな。長谷川も焦ったんじゃないかな(笑)。
佐藤 館長は裏拳をよく使ってましたね。
山崎 昔から得意だったんじゃないかな。あと飛び蹴りも使うんだから、あの身体で。だからやたらと俺にも飛べ飛べって言ってた。館長の昔の写真を見ると確かによく飛び蹴りしてるんだよな。

──当時は空手ブームで、生徒が溢れんばかりに?
山崎 俺の時は全然いないよ。ブームじゃなかった。館長も食えないもんだから外国行ってドル持って帰って来るしかないんだよ。そうじゃないと食っていけなかった時期だった。
佐藤 自分たちの時は凄かったですね。道場に入りきれないくらい生徒はいましたね。
山崎 俺がキックの試合に出場し始めてからブームが始まったんだよ。

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佐藤奈々子選手
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