格闘技

皇治という生き方。「悪役か主役か」[ロングインタビュー全文掲載②]

9月27日(日)、さいたまスーパーアリーナで開催された『RIZIN.24』のメインカードとして、RISE世界フェザー級王者“神童”那須川天心(TARGET/Cygames)に挑んだ皇治(TEAM ONE)。久しぶりの地上波(フジテレビ系)での放送ということもあり、この二人の激闘を目にしたファンも多いのではないだろうか。一つひとつの言動や行動に賛否両論が起き話題を呼ぶ男、皇治が語る「格闘技が盛り上がれば悪役でも主役でも何でもいいですよ」という生き方を、試合前のインタビューから振り返ってみる。※[ロングインタビュー全文掲載①]を読んでいない方はそちらからご覧ください。

K-1との契約を破棄してRIZIN参戦を発表すると、8月9日の『RIZIN.22』ではさっそく那須川天心を挑発。不敵な笑みに野心家と策略家、二つの顔がのぞく。賛否両論を巻き起こしながら突き進む男の生き方とは?
取材・文_藤村幸代 撮影_ AP,inc.
取材協力_ LIBERTAD 東京都世田谷区駒沢2-17-5 廣達ビルB ☎ 03-6453-4333

──ケンカは無敗だったと聞いていますが、格闘技は勝手が違いましたか。
皇治 ケンカの頃は自分が世界で一番強いと思ってたけど、16歳の時に格闘技の道に行って。そこで初めて負けて。しかも、大阪の千日前にあったキャパ80人ぐらいのキャバレー。天井もごっつい低くて、自分らがリングに立つと頭が付きそうなんですよ。そこではオジサンたちが女の子を横に置いて、お酒を飲みながら俺らがアテで試合をさせられる。俺はそこから上がってきたんで。こうしてファンが応援してくれるなんて奇跡でしかない。だからこそ、この格闘技界でファンが喜ぶカードができないかと…そこに話がつながってくるわけやけど。でも、悔しいことは他にもいっぱいありましたよ。市役所の市長室に入れてもらえなかったりね。
──どういうことですか?
皇治 高校になって格闘技の世界で生きていきたいと思ったとき、当時お世話になっていた校長先生が「本当に真面目にやるなら一回市長に会いに行こう」と誘ってくれたんです。でも、俺はヤンチャなほうで有名やったんで、市長から「個人的には応援してるよ、でも市をあげての応援は無理や」と。それも悔しかったね。「絶対に見返してやろう」と思った。その何年か後に池田市のスポーツ親善大使をやらせてもらうことになりましたからね(笑)。
──キャパ80人のところから出発し、K‒1までの長い道のりのなかで反骨心が醸成されていった?
皇治 すげー、時間かかりましたからね。だってプロデビュー戦はファントム進也というシュートボクシングのチャンピオンですよ。当時はランキング3位で、俺は16歳のガキ。完全に当て馬でやらされて。でも、結果は判定負けでしたけど、KOされてないんですよ。ダウンも取られなかったですし。当時はそういう当て馬役ばっかりでしたよ。マジ悔しかったし、そこから地方の大会で勝ったり負けたりしていたけど、でも、有名になることは全然諦めていなくて。大阪、名古屋の大会、J‒NET、NJKF…それでHEATのチャンピオンになって。そこからですよね。HEATに出ている時に「K‒1の卜部弘嵩を倒す」と言いつづけたり、自分の主張をどんどんし始めたのは。
──弘嵩選手に狙いを定めたのは?
皇治 その時、彼が一番ピークだったんです。武尊はまだ55(㎏クラス)でやっていて、弘嵩のほうが目立っていた。で、「俺とやれ」と言いつづけて、ほんまにやって勝っちゃった。カッコええな、俺(笑)。
──でも、K‒1を目指すならもう少し器用なやり方や近道もあったのではないですか。
皇治 地方から頂点に行きたかったんです。こんなに地方の人たちが応援してくれてんねんから、地方からでもK‒1に上がれるっていうことを俺が証明してやると。当時、地方から上がっているK‒1ファイターは今ほどいなかったんです。だからこそ、俺は行くというのを見せたかった。そこにたどり着くまでのルートに関してこだわりはあったんです。だからスポンサーのコネとかでリングに上がってるヤツは大嫌いで、絶対に自分の力で上がっていくと決めてました。
──遠回りでもそのルートにこだわった?
皇治 こだわってましたね。だから俺、チケットをムッチャ売るんです。日本で一番売るんじゃないかなと自分では思ってるくらい。それもスポンサーがまとめて買ってくれるということはなくて、一人ひとり訪ねていって手売りする。当時はリュックサックにポスターを入れて配っていましたからね。「俺、チャンピオンになるんで」と。そうしたら、「なんかおもろいガキが出てきたな、こいつの夢をちょっと応援したろか」という人が現れだして。
──その当時からずっと応援し続けてくれている人もいるんですね。
皇治 だから、このあいだRIZINに行くと決まった時もすごく喜んでくれました。「あんなにクソガキやったお前が、そこまでぽんぽん夢を叶えていく姿にすごく力をもらっている」と。最初からスポンサーが
いたわけじゃ決してなくて、1試合2万円のサポートから始まってちょっとずつ、ちょっとずつが今につながってる。
──そのプロセスを省いて、いきなり大舞台というのは抵抗感があったんですね。
皇治 それは誰でもできる。でも、やったところで格闘技はメジャーになれへんとずっと言ってました。地方の俺らが東京をまくってどんどん勢力を広げていくんだって、それは言いつづけてましたね。目指すはK‒1。それは小学校のころからずっと言っていて、日記にも書いていた目標でした。ただ、どうやったらK‒1までたどり着くかは全然分からなかったんですけどね(笑)。
──それでも、よく諦めずに続けてきましたよね。
皇治 しつこいんですよね、きっと性格が。だってK‒1に俺が上がれたのも、ツイッターで直接宮田(充・当時K‒1プロデューサー)さんに言ったことがきっかけですから。最初にKrushに出た時はいい結果が出せなくて、そこから何年か後にHEATでチャンピオンになって、「K‒1に出たい、出たい」と。それでも全然声がかからなかったから、宮田さんに直接「チャンピオンなのに何で使わへんねん」と。そうしたらジムの代表に連絡が来て、ムッチャ俺は怒られて。でも、その次の日に「試合やってみないか」と宮田さんからオファーが来たんです。
──それが2016年2月、Krushでの剣闘士〝俊〟戦ですね。
皇治 普通にやっても目立たれへんと思ったんで、中指を立てたんです。そうしたら案の定ディスリだして。でも、次の日の試合、左ハイキックでKOしたら、急に「皇治ってヤバいな」と評価が上がった。そこからですよね。やっと表舞台にちょっと立てるようになったのは。25、26歳ぐらいだったかな。K‒1に上がるのに11年かかりました。
──焦りなどはありましたか。
皇治 もう焦りしかなかったですよ。ちょっとヤンチャして稼いだぐらいで、そんなに胸を張れるぐらい金を持ってなかったし。まあ、その頃からムチャクチャ金は好きやったですけどね(笑)。金持ちになりたいっていうのはすごくあった。親父の姿も見ていたし、何を言うてもお金がないと幸せにできない。それは今も思ってます。どんだけええことしてても、コンビニに行けばお金はかかるし、お金がないと女は幸せにできんみたいなのがすごくあったんで。今もすごくお金が好きです。いいクルマに乗って、いい時計して。
──ちなみに今日の腕時計は?
皇治 ロレックスだけどそんなに。400万(円)ぐらいです。
──でも「お金が好き」と言い切る人はあまりいないかも。
皇治 そうですか? 俺、格闘技はお金のためにやってますよ。メッチャ嫌いなんですよ、格闘技。すぐにでもやめたいと思ってる。だからこそ、「すごく格闘技が好き」みたいなこと言ってる選手がいると「俺はそういう選手には絶対負けへん」て、ずっとそう思ってやってきましたね。「格闘技が好きなら、負けたって好きだからやれるやん。こんな嫌いなことで負けてたまるか」みたいなね。
──というのは表向きで、本当は格闘技が好きなんだと思っていましたが。
皇治 いや、ムッチャ嫌い。ムッチャ嫌いだから、ムッチャ練習するんですよ。
──どうしてそんなに嫌いなんですか。
皇治 痛いし、この仕事をしなくても金は稼げるというのもあるし。ただ、自分でやり通すと言うたのはこれやから、「この仕事以外でもっと金稼げるし」というのはただの言い訳に過ぎない。だから、そっちには
絶対に向かわないですけど、だからこそK‒1やRIZINに上がって金を稼いで、そのへんのスポーツ選手に負けないようにとは思ってます。
──今はそれがかなり実現できているのでは?
皇治 そうですね。俺がええ時計つけて調子乗ったことしてないと、若い子たちは何を目指すの? ってならへんですか? だって若い子らが本田圭佑さんとかイチローさん見てカッケーなと思うじゃないですか。あんなええ暮らししてって。格闘技でも俺らがそういうのを見せていかなアカンと思うんで、こういう暮らしをしてますね。
──伺ってていると皇治選手には2つの面がありますよね。対戦相手を口撃したり「お金が好き」と悪役に徹する一方、「感謝」とか「誰々のおかげ」とか「格闘技を盛り上げたい」という言葉もよく出てきます。
皇治 まあ、ええヤツですからね(笑)でも、たしかにどっちか言うたら悪く言ってるほうは狙ってますよ。何でかって言ったら、いつも言うてるけど記者会見する意味わかってる?っていう。ホテル押さえて人件費もかかってて、ファンも見ている。何でそこで「頑張ります」なの?毒舌だけが正解じゃないけど、何か人を惹きつけることをしないと格闘技界は盛り上がらない。オリンピックの選手とかと違って俺たちはプロの格闘技をやってるんやから、格闘技にしかないものをしなあかんのやと思うんですね。その中で、一番やりやすかったのが言い合うことだった。俺の場合ね。
──今では試合と戦前の舌戦がセットになっています。
皇治 でも、リアルじゃないですか。まったく知らない者同士がリングで向かい合ってどつき合いをするわけですよ、裸で。最初は絶対出てこないんですよ、「リスペクトします」なんてセリフ。そんなこと言うヤツは、俺は絶対にカッコつけてると思ってる。だって、お互いの立場や全てを奪い合うわけやから。俺はそのままを言ってるだけであって。それでファンが盛り上がるなら全然いいし。
──RIZINへの移籍会見でも、まさに皇治節という発言がたくさんありました。
皇治 すごい反響やったじゃないですか。それこそ賛否両論だけどファンもアンチもいなかったら、俺の立場がないですもんね。「31 歳のただのオヤジがRIZINに来た」で終わりやと思うけど、あれだけみんなが賛否両論してくれたんで、これだけね、位置を作れてると思うので。だからすげー感謝してますよ。
──会見の時も「31歳だから」と言っていましたが、年齢はけっこう気にしますか。
皇治 ムッチャ気にしてますよ。まさか31になっても殴り合いしてると思わなかったですよ。もっと早くスパッとやめる気でいたんで。で、くどいようですけどこれだけ知名度を持った俺がRIZINに行ったことで、格闘技界が盛り上がった。それが自分のすべきことやと思ったので。知名度を持ったということは責任を得たことと同じやと俺は思っている。だからこそ格闘技界に何かをしないとアカン、それをファンに預けてもらった、背負わせてもらったと思ってるので。で、知名度があるファイターとしては今回、すべきことをしたと思うんです。次は個人のファイターとして、俺が思っていることをやるだけだと。
──まさに有言実行の皇治選手ですが、今まで一度言ったことを守らなかったことはないんですか。
皇治 いや、一度だけありますね。俺、13年付き合っていた彼女がいて、一緒になると言ったことがあったんですけど、ただ、「世界チャンピオンになって、この世界で一丁前になるまでは結婚せえへん」とずっと言ってたんです。
──そしてISKAの世界のベルトを獲った。
皇治 はい。でも獲るのが遅すぎてタイミングが合わず約束を守ることができなかったんです。それくらいですね。
──唯一の有言不実行がそのエピソードとは思いもよりませんでした。
皇治 やっぱり何かずっと心にあるんです。でも、それ以外は上がりたい団体、戦いたい相手…全部言ったことはやってきましたね。だから俺、よく思うんです、ほかの選手が俺にヤキモチ焼いて「皇治は口だけ」とか言うんですけど、「俺が口だけだったらお前らどうなんの?」って。K‒1大阪大会にしても、俺は必ずやるといっていた。観客動員含めて俺がいなかったら絶対できていなかったと思うしね。うん、言ったことは全部やりました。で、ここからが俺から若い子やファンに向けてホンマに伝えたいこと。

KOJI
1989年5月6日、大阪府池田市出身
身長173㎝
ISKA世界ライト級王者
初代HEATキックルールライト級王者
42戦28勝(10KO)14敗
TEAM ONE所属

▶続き【皇治という生き方。「悪役か主役か」[ロングインタビュー全文掲載③]】は明日10月11日アップ予定。お楽しみに

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佐藤奈々子選手
佐藤奈々子選手