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「中野ヘルスから怒号が…」世界ナンバーワンの筋肉美を決める大会を52歳で制した遅咲きの狂い咲き松本美彦

遅咲きと言われながらも、高い実力で2021年11月3~8日に行われた世界選手権のボディビルマスターズで優勝した松本美彦選手。今日までの結果に至るまでには、伝説の男たちとの大きな出会いと、面白い話の数々があった。(月刊ボディビルディング2022年2月号から引用)

取材・文:月刊ボディビルディング編集部 撮影:北岡一浩(トレーニング)、中島康介(大会)

1時間半でマイナス3㎏!?

――世界ボディビルマスターズでの優勝と、クラシックフィジークマスターズでの準優勝、誠におめでとうございます。
松本 ありがとうございます!
――今の感想はどうでしょうか。
松本 今回もボディビルマスターズだけならぜんぜん余裕だったんですが、向こうに行ったら(クラシックフィジークにも)ダブルエントリー可能になって出ることになり、身長からマイナス100㎏で、プラス4㎏までの体重に収めなければいけなくて、それが71㎏でした。「やばい!」と思い急遽向こうで体重を落とすためにサウナを探しましたが、1時間半しか入ることができませんでした。でもそこで3㎏も落とせたんです(笑)。ドキドキしながらサウナの石に水をかけて地べたに寝そべり、粘りながら30分入りましたよ(笑)! その後も少し休憩を入れながら水抜きをしていき、それが功を奏したのかハードな仕上がりで出られたと思います。
――今回がクラシックフィジーク初挑戦となりましたが、直前の調整がボディビルでも勝てた要因になったのですね?
松本 そうかもしれません。それが無かったら甘く出ていたのかもしれません。でも、調整的には、「もっと落とさなきゃいけない」という気持ちはジャパンオープン、日本クラス別、日本マスターズ、日本選手権と続き思っていました。僕的には、体重制限があったほうが緊張感を持って出られるのかなっていう…(笑)。
――21年のシーズンは2年ぶりの大会となり、期間も長かったと思いますが…。
松本 でもね、18年はもっと長かったですよ。「もう二度とあんな長いシーズンはしない!」と思っていたのに、また繰り返すという…(笑)。
――18年はなぜ長かったのでしょうか。
松本 当時40代最後の年で、全部出ようという気持ちでした。今回はジャパンオープン優勝したら、日本選手権も出なきゃいけないよと周りに言われたんです。当初、日本選手権出場は考えていませんでした。
――というと?
松本 ジャパンオープンと日本クラス別だけでしたが、日本マスターズまで頑張ろうと思いました。日本クラス別のときは、むくんで甘い仕上がりになってしまって、「もう今年はやめよう」と思って、日本マスターズまでなんとか行きました。でも、周りの声もあり日本選手権まで出ようとなり、吉田アニキ(吉田真人氏)のところに行き、「もっと仕上げないといけないね」と喝を入れていただいたこともあり、日本選手権ではファイナリストまであと少しの順位まで行けた気がします。
――世界選手権にはどうして出たのでしょうか。
松本 ジャパンオープンと日本マスターズの選考があり、今回出ることができました。本来であれば、日本マスターズの僕の階級のオーバーオールは土金正巳選手でしたが、今回は世界選手権に行く2週間前までに新型コロナウイルスのワクチンの2回目接種が終わっていないと出られないということでした。僕は日本クラス別の直前に2回目まで済んでいたんですね。
――その直前のタイミングが日本クラス別に影響したのでは!?
松本 2回目接種が終わった翌日に吉田アニキのポージング練習に出たんですが、途中から熱が上がりだして、金子(芳宏)選手や吉岡(賢輝)選手、相澤(隼人)選手たちに心配され、「もう帰るわ(笑)」となりましたね(笑)。それで最寄り駅まで歩いたんですが、登り下りがすごくてハアハアなりながら熱は更に上がるしで、本当大変でしたね(笑)。
――21年の一番メインの大会はどれだったのでしょうか。
松本 日本クラス別でした。それがワクチンの影響もあって失速しました。誰にも言い訳できないやつです。「ワクチンのせい」とは言いたくないですし(笑)。
――そこから日本選手権に向けてはどのように取り組みましたか?
松本 18年のシーズンぶりにウォ―キングをやりました。
――日本クラス別の後から取り入れたのは、やはり絞りの面からですか?
松本 そうですね。1日の消費カロリーが少なかったのかなって。18年は米をたくさん食べるようになって体調が良かったんですよ。でも21年は摂取量過多になってしまったのか、1日の消費カロリーが減ったのだと思います。それでウォ―キングを始めました。
――それを世界選手権前まで続けたのですね。
松本 ただ、世界選手権の前から手足が急に冷たくなってしまって、これが原因が分からなかったんですね。
――寒さからくるものではなくて?
松本 違うんです。それで健康診断を受けたら腎臓と肝臓の数値が上がっていました。これはビルダーなら多くがそうかもしれませんが(笑)。それでエコー検査もして、何なんだこのだるさと冷たさはとなり、ご飯も食べているから低血糖でもないし、これは今後の課題になりそうです。

世界選手権の裏話

――現地では日本人選手たちが和気あいあいとしていたとか。
松本 楽しかったですね。ただ、減量組と、食べて調整する組と色が分かれていましたね。金井(雅樹)選手は身体の中の物を出そうと何回もトイレに…。すごい気持ちが分かりました。僕もあと3㎏落とさなきゃだしどうしようと思い、トイレが空いたら次は僕が入るみたいな。もうね、笑顔なんて無かったですよ(笑)。食べる組も大変そうで、五味原(領)選手はめっちゃ食べていて、「それでも体重が減るんです」と言っていましたね。田村(宜丈)選手も同じでした。それはそれで大変だったと思います。「そんな塩コショウをたくさん…。僕らはトマトときゅうりだけで…」みたいな感じでしたね。
――それぞれの色があるのは世界選手権ならではですね。
松本 今回はジュニア、マスターズ、一般が一堂に集まり、世界102カ国から約1800人集まりましたから。あんなに男女が集合してやることは今まで無かったですからね。そう意味でも日本のチームに色んなカラーが集まって良かったと思います。勉強になったし、仲良くなれて視野も広がりました。
――1800人集合は類を見たことがありませんが、進行上大変だったかと思われます…。
松本 日本はがちがちで上手くやっていると思います。でも、世界の舞台では急に表彰式になったり、突然ピックアップが始まったり、慣れているわけではありませんが、最初から覚悟していました。僕は(現地時間)19時から出番だから17時ごろに準備したのが、21時ごろに出番がきて、表彰式が0時ごろでしたよ(笑)。血管も筋肉の張りも失せて、最後は笑顔だけで…(笑)。それで、数人を残して翌日出番のグループは先にホテルに戻っていました。その数人の中の加藤(直之)選手と金井選手ら5人くらいが僕のことを応援してくれていました。
――皆さんの表情はいかがでしたか?
松本 みんな、「オォ―!」って言ってくれて、それで表彰式で『君が代』が流れたときに加藤選手が、「きーみーがーあー」って(笑)。大きな声で聞こえるわーって思って、加藤選手は声援をすごく送ってくれましたね!
――加藤選手の何か面白い話があるとか(笑)。
松本 女子選手の出番が0時を越えちゃって、ホテルに帰っても食堂が閉まっているし、近くにコンビニとかも無かったので、「今ホテルの食べ物を取っていかないと、みんな食べれない」と思って、それで僕と加藤選手の親心みたいなもので、2人でホテルの食堂へ食べ物をもらいにいきました。そしたら食堂がガラガラで、周りの視線がすごいんですよ(笑)。その目立つ中で加藤選手が泥棒を働くかのように、ジップロックにパンパンに詰めまくっていましたよ(笑)。
――それはやって大丈夫だったんですか(笑)?
松本 部屋に戻って食べる用としていたので大丈夫だったんですよ(笑)。
――それも世界に行くシーンならではの光景ですね(笑)。
松本 あと体重を500g落とさなきゃいけないと思って、2回目のサウナに予約しないで入ろうとしたときに入口の前でセキュリティに止められましたが、日本のジャージーを見せたら入ることができたんです。体格や、日焼けして黒いので、危ない人に見えたのかもしれません。だから日本のジャージーなどは常に持っておくべきだと覚えました(笑)。

松本美彦とボディビルの出会い

――ここからは松本選手の過去の話を深堀していきます。まず、ボディビルとの出会いはいつだったのでしょうか。
松本 昔、身長を高くしたくて中学生から社会人になるまでバスケットボールをやっていました。そしたら脚や腕の筋肉ばかりついて、ジャンプシュートだけは上手くできていたと思います(笑)。19歳のときに大学入学のために上京し、社会人になってIT企業に就職しました。仕事は1週間ほぼ休みなしで、ご飯も揚げ物ばかり食べさせられて太ってしまいました。やばいと思い、24歳くらいのときに自宅近くのフィットネスクラブに入会しました。
――トレーニングはけっこう早くからやられていたのですね。
松本 でも、ボディビルデビューは33歳で、遅咲きの狂い咲きっていうやつです(笑)。
――フィットネスクラブでのトレーニングはどうでしたか?
松本 トレーナーがベンチプレスなどで補助してくれるんですよ。それで50㎏を挙げたときに、「僕は補助してないですよ!」と言いながら小指だけ(バーベルに)かけてくれていたことを後で教えてくれて、自信をつけてくれたんですよ。それで次はもっと挙げましょうとなったときに、「松本さん、ボディビル大会に出た方がいいですよ」と言われ、ボディビルへのレールを敷いてくれたんですね。そしてその方が『中野ヘルス(クラブ)』を紹介してくれました。
――小沼敏雄選手がいた、まさにボディビルのためのジムですね。
松本 中野に住んでいたのもあり行ってみようと思いました。それで中野ヘルスの階段を上がろうとしたとき、真夏なのにジムの開いた窓から「オラ―! もっと挙げろー!(ドカン、ガシャン)」と聞こえてきて、初心者の自分には怖すぎると思って、階段の途中まで行きましたが、ここはやめようと思いました(笑)。
――その後は?
松本 中野坂上の『ワールドジム』というところに通いまして、そこでとある巨大なボディビルダ―と出会いました。それでその方のトレーニングビデオを買ったりして、一人黙々とトレーニングしていました。それが28歳のときで、脚はぜんぜんやっていませんでした(笑)。そのときはまだボディビル大会に出たいとは考えてもいませんでしたね。ただ、どうやったらその人のように腕とか太くなるのだろうと思っていました。その後、ワールドジムが移転したんです。自宅から遠くなってしまって迷いながらトレーニングしていた矢先、中野にゴールドジムができることを知りました。そのときにちょうどボディビルに出ようと思って、ゴールドジムイースト東京に登録しに行った後でした。

恩師との出会い

――そこがボディビル出場の始まりですね?
松本 そのころには身体が大きくなっていたので、一度は出てみようかと思っていました。ただ、当時はサプリメントのこともよく知らず、ご飯も食べず走りまくって減量していました。そのとき初めて出たのが東京オープンでした。その後中野にゴールドジムができ入会しました。また、そこで初めて小沼選手にお会いして、遠巻きで見ていました。ある日小沼選手から、「君、東京オープン出てただろう? 見てたよ! 甘かったけどな」と、最初の挨拶を交わしました(笑)。「よく見てるな!」と思って、水を得た魚のようにトレーニングを教えてもらいました。印象に残っているのはTバーロウイングで、引き付ける感覚が楽しくてしょうがなかったですね! 当時は指導者という指導者がいなかったので、ずっとついて教えてもらっていました。
――東京オープンの後に、東京クラス別がありましたね。
松本 「松っちゃん、もっと絞らなきゃダメだよ」と言われ、75㎏以下級から70㎏以下級まで絞りました。そのときにポージングを見ていただけることになり、小沼選手が中野ヘルスで勤務の日に行くことになったんです。中野ヘルスでポージング練習をしていたら、大きなゴキブリが走り回っていて驚いてしまって、小沼選手に「どこ見てんだー!」と怒られて、何だここってなりましたよ(笑)。また、そのゴキブリがデカくて…、プロテインとか与えているのかなと、どんだけ栄養たっぷりなんだよと思いました(笑)。
――東京クラス別での闘いはどうでしたか?
松本 ガリガリになっちゃって結果はだめでしたね。そんな感じでデビューの年は辛い終わり方になりました。その後、小沼選手が毎週土曜日にトレーニングで組んでくれて、いつもそのときは怖くて寝られなくなっていました(笑)。挙がりかけなのにまた落とされて、なんやこれ!みたいなね(笑)。それで寝不足で負のオーラをまとって、元気も無いから更にきつくて(笑)。でもそのおかげで翌年70㎏以下級で準優勝まで行けたんです。小沼選手とやり始めて身体は劇的に変化しましたね。
――自身で感じられるくらいの変化だったのですね。
松本 そうですね。その後、胸のトレーニングでインクラインダンベルプレスをしていたら、右の大胸筋上部を断裂してしまって、それがかなりトレーニングに影響しましたね。でも、その翌年の06年の東京クラス別で優勝できて、胸を切りながらも勝てたことに初めて泣きそうになりました。
――ケガを乗り越えて勝てたことに対する喜びの表情ですね。
松本 05年の5月に大胸筋を断裂してでも東京クラス別3位、関東クラス別2位(表彰台)となったので、次は優勝というのも思っていました。また、ボディビル3年目でめっちゃ熱が入っていたときだったので、ここで止めたら棒に振ってしまうと思い、何かしらの形で残したかったのもあって続けることができました。
――今日は背中のトレーニングを行っていましたが、その中でトレーニング中の小沼選手に補助される場面を見ることができたのですが、やっていた種目は何だったのでしょうか。
松本 あれは『小沼ロウ』という種目です。あれが合わない人もいれば、ものすごく伸びる人もいます。伸びている人は今の日本ボディビルの中でも上位に入っている選手が多いですね。僕はやり切ったら汗はすごいし、背中が痛いくらいしっかり効いているしで、体感がすごいです。小沼選手はよく、昔ながらのトレーニングをしているように見えるんですが、今の時代には無いものがあり、最終的には小沼選手のトレーニングに行き着くんですね。
――傍から見ていたら、「叩いて押しているからフォームが崩れるんじゃないか」と思うのですが、大丈夫なのでしょうか。
松本 僕はぜんぜん大丈夫ですね。効くところを押してくれるから分かりやすいのもあります。押されたときに足のポジションが悪いとブレたりするので、そのブレない位置も探すことができるんです。
――若い人にも体感してもらいたいものです。
松本 そう。今の若い人たちは腕引きで終わる人が多いので、学んでほしいものです。小沼ロウが分かると、初めてマシンのロウイングでも‟引く”ということが分かると思います。03年からずっと僕はそれを実践していました。
――小沼選手とは良いペアなのですね!
松本 まあ、たまに嫌味言うときもありますが(笑)。お互い付き合いが長いのでいろいろありましたね、ここでは言えませんが(笑)。
――前の話で吉田真人氏とのことが出てきましたが、出会うきかっけは?
松本 僕が06年に東京クラス別で優勝して、翌年に山田(幸浩)選手が優勝し、お互い切磋琢磨しながら練習していました。あるとき山田選手から一緒にポージング練習をしないかと声をけられたんです。それが吉田アニキとの出会いでした。山田選手に加え、相川浩一選手、髙梨圭祐選手、金子選手など、当時伸びていた選手が勢ぞろいでしたね。それでもって恐縮しまくっちゃって(笑)。
――松本選手も含め、とんでもない方たちの集まりだったのですね。
松本 ライバルが今の環境に引き込んでくれたので、本当にありがたかったですね。ずっと小沼選手のポージングを受けていましたが、違う視点からの見方も学びました。吉田アニキのポージングは、正面だけじゃなく、斜めからの厚みだったり、立体感を見ていくということです。2つの見方が入ってっきて、今の僕があります。前に吉田アニキから、「松本くんは東京獲ったらどうしたいんだ」と言われ、日本チャンピオンになりたいですと答えたら、「日本チャンピオンになったらどうしたいんだ」と、世界チャンピオンになりたいですと答えたら、「世界チャンピオンになったらどうしたいんだ」と。僕は黙ってしまって…。でもそれが何十年も引っかかって、何のためにボディビルをやっているんだと考えさせられました。その質問してくれた吉田アニキは本当にすごいと思いました。競技のためだけじゃないということを教えてくれて、それから僕のボディビルに対する考え方が変わりました。
――小沼選手と吉田氏の影響というのは大きなものなのですね。
松本 僕の中では日本選手権連覇の小沼選手と、グアム親善大会などを主催されている吉田アニキの言葉が重なって、今の自分ができているのかなと思います。

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