トレーニングを継続していくと、いずれは身体に顕著な変化が見られなくなったり、使用重量も頭打ちになったりするものだ。そうした中、木澤大祐選手はどのようにして短期間で激変、ブラッシュアップしていったのか。木澤選手に聞いた。
文:藤本かずまさ 写真提供:体育とスポーツ出版社
2004年に身体が変化したのには明確な理由があります。その2年前まで、私は佐川急便に勤めていました。03年の夏ごろに今のこのジム(ジュラシックアカデミー)を作るきっかけにもなった医療廃棄物の収集運搬の会社に転職したのですが、それでトレーニングをする環境が良くなりました。
佐川時代は過酷な肉体労働という環境の中でトレーニングをするのが精一杯でした。仕事で疲労困憊の状態でジムに何とか行っていたので、正直トレーニングになっていないような状況でした。食事に関しても、仕事でカロリーが消費されるので、食べても食べても追いつかないような状態でした。
ですが、同じ肉体労働ではありますが転職して、睡眠状況も改善され回復もできるようになりました。トレーニングの強度も自然と上がっていきました。つまり、それまでがあまりに過酷な環境でしたので、普通の生活に戻ったというだけで、みるみるうちに身体が復活して急成長しました。
ただ、環境が変わったから急成長できたわけではなく、そこに至るまでトレーニングだけは何とか続けていたというのが急成長できた大きな要因だと思います。佐川時代にトレーニングを継続させていなかったら、環境が変わったからといって急に伸びることはなかったと思います。過酷な環境でも踏ん張り続けたことで、普通の環境に戻ったときに「何て普通が楽なんだ」と感じられたのが大きいです。今でも、どんな状況にあっても諦めずにトレーニングだけは続けておくことが大事だと思っています。トレーニングを続けていけば、いつかその踏ん張りが開花する日が必ずやってくるはずです。
ジムという環境面は、当時はまだゴールドジムが名古屋にできる前だったので、フリーウエイトの基本種目がほとんどでした。その中で重量を追っていくことは以前から行っていたので、2004年に何か新しいアプローチを行ったわけではありませんでした。
95年に全日本ジュニアで優勝したころは、市営の体育館のトレーニング室でトレーニングしていました。マシンもあまりなく、バーベルやダンベルの重さもないような環境でやっていました。その時代に僕は今のトレーニングの基礎を築きました。重い重量だろうが軽い重量だろうが、その環境の中で限界まで追い込む術を自然と身に付けてきました。設備的に、種目にバリエーションを持たせることができませんでしたから、例えばスクワットならば15セットやるとか。ボリュームのあるトレーニングを主に行っていました。
効かせる感覚などは、まだ分かっていませんでしたので、脚のトレーニングでしたら、終わったあとに脚をほぼ攣って動かせなくなるまで筋肉を酷使するようにしていました。当時はトレーニングノートもつけておらず、それこそ自分の感覚で、気が済むまでトレーニングをやっていました。あと、補助をつけていましたね。フォーストレップをとにかくやっていました。身体はかなり大きくなりました。
私は18歳で初めてコンテストに出場しましたが、19歳、20歳の2年間で除脂肪体重が10㎏ ほど増えています。20歳で全日本ジュニアに出たときは、すでに80㎏ ありました。今の身体の土台がその2年間でほぼ出来上がりました。トレーニングを始めた時期に一番大切なのは、追い込むための体力や精神力を発達させることです。そういう時期がないと、のちの成長につながっていきません。キャリアを積んでからいきなり追い込もうとしても遅いと感じます。
また、そういう経験を経たのちにトレーニング環境がよくなって、いろんなマシンに触れるようになってくると、効かせる感覚というものが自然と向上していきます。私の場合は市営の体育館から始まって、ジムに通うようになって本格的なマシンに触れて、ゴールドジムができて…という感じで環境がしだいに変わってきたので、その環境の変化が自然と身体が変わるきかっけにもなってきました。
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