昨年は10代でミスター東京、さらには日本選手権ファイナリストとなり、大きな話題となった相澤隼人選手。その肉体は、いかなる過程を経て作られたのか。“ 令和の怪物” の最新のメニューを公開するとともに、そのトレーニング履歴を振り返る。
取材・文:藤本かずまさ 撮影:北岡一浩
―今回は体づくりの履歴を振り返っていただきます。初めて「トレーニング」というものを行ったのは?
相澤 小学2年生のときです。そのころ中学生だった兄の影響ですね。種目は腕立て伏せ、腹筋、自重のスクワットなどです。また、3㎏の鉄アレイがあったのですが、当時知っていた種目はアームカール、サイドレイズくらいだったと思います。
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―小学4年生で柔道を始めます。
相澤 そこでトレーニング内容が変わることはありませんでした。ただ、柔道の練習の前に補強で自重の筋トレをやるんです。だから、週3回は必ず基礎的な筋トレをやるようになりました。
―ジムに通うようになったのはいつですか?
相澤 中学1年生の9月にルネサンス相模大野店に入会しました。最初はマシンばかりやっていました。そして、スミスマシンでベンチプレスをやっていたら、ジムのスタッフさんだったか兄だったかは忘れてしまったんですが、「ベンチプレスはバーベルでやったほうがいい」と言われて、それで初めてバーベルを持ちました。中学2年のときだったと思います。
―ちなみに初めてのベンチプレスは何㎏で?
相澤 30㎏、40㎏くらいだったと思います。最初はすごくぐらつきました。当時は1発のマックス重量を伸ばそうとしていました。続けていたら、中学3年のころには100㎏を挙げられるようになっていました。
―中学生でマックス100㎏はすごいですね。分割はどのようにしていたのですか。
相澤 まだ分割法は知らなかったです。2年生になるころまでは、空いているマシンを全てやっていました。
―分割法を取り入れたのは?
相澤 2年生から3年生になるころだったと思います。最初は「胸」「背中」「腕」「脚」で、肩はやっていませんでした。「肩のトレーニング」というものを知らなかったんです。
―そうした中、中学2年のときに初めて神奈川オープン選手権に出場します。
相澤 ちょうど分割法を取り入れ始めたころだと思います。
―ボディビルに出場するために分割法にした?
相澤 そういうわけでもないんです。自分でもなぜボディビルの大会に出ようと思ったのかも分からないんです。気が付いたら出ていた、みたいな感じでした(苦笑)。
―翌年は中学3年生にして同大会で8位になりました。
相澤 そのころにはボディビルをやっていこうという気持ちになっていました。本当は全日本ジュニアに出場したかったんです。でも、出場資格が16歳以上なので、中学生は出られないんです。同時に、高校生選手権というものがあることを知ったので、翌年は出ようと思いました。そこで上位6位以内に入賞すれば全日本ジュニアにも出られますから。そのころはルーティンに「肩」も入れるようになりました。「胸」「背中」「脚」「肩+腕」という分け方でした。
―当時はどういった種目をメインにしていたのですか。
相澤 まだマシンを全てやっていました(苦笑)。高校1、2年生くらいまでは、最後に自分で「追い込み種目」を決めていて、ドロップセットで10セットほどやって筋肉を動かせなくなるくらいまで追い込むというのをやっていました。特に意味を考えたわけではなく、「やった分だけでかくなれる」と思っていたんです。
―ただ、実際にでかくなっています。
相澤 柔道では中2の夏が50㎏級、冬が55㎏級でした。
―それが高校では?
相澤 1年生のときは66㎏級で、3年生のときは73㎏級でした。2年生のときに66㎏級まで絞ったら、ボディビルの大会のときのようなコンディションになってしまい、試合で動けなかったんです。減量もキツくなってきていたので、73㎏級にしました。高校時代に増えましたね。
―高校生になって分け方を変えたのですか。
相澤 「胸」「背中」「肩」「腕」「脚」の5分割になりしました。鈴木雅さんとの出会いが大きかったです。当時、鈴木さんが月1回のペースでここ(ゴールドジム町田東京)に勤務していたんです。いろいろとアドバイスをいただきました。
―高校1年生のときにゴールドジムに入会したと伺いました。
相澤 以前は「背中」の翌日に「脚」がきていたんです。すると、腰の疲労が抜けないんです。高校の最初の時期は「胸」「背中」「脚」「肩」「腕」だったと思います。そこから「胸」「背中」と「腕」、「背
中」と「脚」、「肩」と「胸」をなるべく離すようにしたら、必然的に「胸」「背中」「肩」「腕」「脚」の順番になりました。この分け方自体は、今も変えていません。
―高校時代は柔道の練習を終えたあとにジムに行ってトレーニングをしていたんですよね。
相澤 「柔道」は「柔道」、「トレーニング」は「トレーニング」という感覚でした。ただ、当時は「どこに効かせる」「これがどこに効く」ということは分かっていませんでした。例えば、背中でも広背筋下部に効かせるのか、それとも大円筋、僧帽筋なのか、とか。そういうことは考えず、「とりあえずやる」という感じでした。だから、鈴木さんに「そのトレーニングはどこを狙っているの?」と聞かれても、答えられなかったんです。そこからトレーニングを考えるようになりました。高校3年生くらいだったと思います。
―そこでは種目を変えたのでしょうか。
相澤 ベースはあまり変えていないと思います。脚の種目に関しては、今も当時からほとんど変わっていません。
―種目を変えるというより、効かせるための意識を変えた?
相澤 それはあります。意識を変えるだけでも、かなり変わってきます。なぜその種目をやるのか。そういったことが分かっているのと分かっていないのとでは、全く違います。ただやみくもにやるのではなく、「筋肉
の起始、停止がここにあるから、こう動かせばいい」など考えながら取り組んだほうがトレーニングも楽しくなります。そのために必要な解剖学の知識は、細かな部分までは網羅しなくても、ざっくりと覚えておくだけでもかなり変わってくると思います。
―高校生選手権3連覇を達成した2017年は仕上がり体重が3㎏ほど増えています。
相澤 68㎏くらいだったと思います。高校生選手権で初めて減量した15年は61~62㎏でした。高校1年生のときは完全に炭水化物をカットしたら、かなり体が萎んでしまいました。練習でも力が出せず、先輩に投げられていました。かなりしんどかったです。そういう経験があったから、2年生からは炭水化物を摂りながら減量するようになりました。
―そうして順調に仕上がり体重を増やしながらも、高校3年生の17年のときに出場した世界ジュニア選手権後に腰のヘルニアを患いました。柔道とボディビルを高いレベルで両立させていたため、その無理がたたって
しまったのでしょうか。
相澤 すでに部活は引退していたので、両立というよりは体より気持ちが先行してしまい、その結果、ケガを招いてしまった感じです。無理してやっていたのかもしれません。「頑張る」と「無理をする」の区別がまだついていなかったのかもしれないです。最大限に頑張って、さらに無理をする人は、ある一定のラインを超えると一気にケガをしてしまいます。その「一定のライン」がまだ分かっていませんでした。
―そこでトレーニングの内容を見直した?
相澤 痛くて夜も眠れないような状況で、トレーニングも1カ月くらいできませんでした。リハビリのようなトレーニングから再開して、無理をしないよう、そこから徐々に強度を上げていきました。痛みの走らない種目を探して、対象筋に効かせられるような動作でやるようにしました。より丁寧にトレーニングするようになったと思います。
―そして昨年、19年は東京選手権で優勝し、その直後にIRONMANで取材させていただいています。昨年IRONMAN10月号「相澤隼人大研究」に当時の5分割のメニューが掲載されています。
相澤 大学に入る前から、メニュー自体はほとんど変わっていません。昨年のシーズンが終ってからは、「脚」を前と後ろに分けました。大学がある期間は、毎週水曜日にバーベルクラブのミーティングがあり、その日をオフにしているんです。だから「脚」を前後に分けた6分割で6オン1オフにしています。今は大学が春休みになり、オフが不定期になったので、脚はまとめてやっています。
相澤隼人
1999年10月21日生まれ。
神奈川県出身。身長164㎝、体重71kg(オン)83kg(オフ)。
●主な成績
2015~2017 全国高校生選手権優勝
2017 日本ジュニア選手権優勝 世界ジュニア選手権75kg 級5位
2018 全日本学生選手権優勝
2019 東京選手権優勝 日本クラス別選手権70kg 級4位 全日本学生選手権優勝 日本選手権9位
トレーニング以外の趣味:「今も映画は好きです。先日も『スター・ウォーズ』を観に行ったんですが、面白かったです」