須江正尋、彼はしばしば"伝説"と呼ばれる。2003年当時、30代という彼の年齢を考えれば伝説と形容するにはまだ若い気もするが、それでも彼がコンテストシーンから姿を消してから、早7年の歳月が流れていた。新陳代謝の早まっている最近の日本ボディビル界からすれば、もはや須江も過去のビルダーになりつつあった。しかし、昨年突如その伝説は復活を遂げた。しかもミスター日本という大舞台でだ。
ボディビル界から遠のいたのは何故か? 突然の復活は? 今後の動向は? 伝説の胸の内を語ってもらった。
(本内容は月刊ボディビルディング2003年月号「特別インタビュー 伝説、須江正尋」から修正引用)
取材:月刊ボディビルディング編集部 写真:アイアンマン編集部・中島康介
◆5年間の空白、そして恐れを乗り越える
— 須江君が復活するのではないかと いうのは、昨年の春くらいから耳にしていたんだけど、実際いつ以来からの出場になるのかな?
須江 1995年のグアムで行われた世界大会を最後に出場していませんから、丸7年振りということになります。
— その1995年のミスター日本で3位、世界大会ライト級で8位という好成績を残して、さあこれからという時期だったのに突如コンテストに出なくなったのは何故?
須江 ちょうど1996年の3月に職場の異動があって、とても忙しくなりました。それがトレーニングできなくなった原因の一つです。また、ちょうど期を同じくして結婚もしました。私の妻はトレーニングについては全くの素人でしたから、自分がボディビルを続けて行くうえで負担をかけたくなかったんです。恐らくトレーニングだけを続けるのでしたらそれほどの負担にならないかも知れませんが、こと大会へ出場するとなると相当な負担をかけてしまいます。とりあえずは新しい生活を大切にしたかったので、中途半端にトレー ニングだけを続けて行くよりも、いっそのことスッパリと止めてしまおうと考えたのです。中途半端にトレーニングを続けても、欲求不満がたまるだけですからね。
— でも、ちょうど評価が上がってきていたので、未練みたいなものはなかったのかな?
須江 自分の場合、あまり結果には執着していませんので、未練みたいなものはありませんでしたね。むしろ1995年のミスター日本で燃え尽きてしまったような感じでした。その年は、それほど調整期間がなくて、本当に集中してトレーニングや調整を進めてきました。そして、ステージで観客の反応や周囲の応援など、それこそ過去最高のものが得られたように感じ、また自分でもやり残したことはないような状態で、大会後はバーンアウトしました。今後、同じことがまたできるかと思うと、とてもできないような状態でしたので、コンテストへの未練はありませんでしたね。
— その未練のなくなった大会に突如復帰したのは何故?
須江 一つは2001年の3月にまた職場の異動があって、比較的時間が取れるようになり、精神的にも余裕が出てきました。 また、その職場というのは、職員の柔剣道の指導や教育を行う仕事ですので、身体を鍛えたり、何かの大会に出場するということに対して後押ししてくれます。ですから、出るチャンスは今だと思いました。
— 大会に出場するとなると、家庭に負担をかける事になると思うけど、奥さんはどうだったの?
須江 実は、2年くらい前に妻が「何で大会に出場しないのか?」と口にした事があったんです。その時「負けるのが恐いの?」とも言われました。確かに、1995年までコンテストで戦っていた時は、追って行く立場で戦っていましたので、負けるという事に恐れはなかったと思います。しかし、社会人大会である程度の成績を残していくうちに、自分の中である程度ポジションというものを作り上げていたのでしょうし、小さなプライドが生まれてきたのでしょうね。それらを乗り越えることができるのか不安でしたし、またそれに立ち向かっても歯が立たないという状況に陥るのが恐かったのかも知れません。確か、自分はそれまで後輩に負けたことはなかったし、最近は新しい力がめきめきと伸びてきているので、そういった後輩に負けるのが恐くないかと言えば嘘になるでしょう。ただ、妻に「恐いのか?」と問われたときに、何を自分は恐がっているのだろう、と考えさせられました。ただ、大会に出場すれば良いのではないか? それに向かって真剣に取り組めば良いのではないか? 結果がどうであろうと、やってみたら良いのではないか? 妻も勝ち負けを望んでいる訳ではないし、どこまで自分ができるのかを見せてやろうと思いましたね。
— それで、昨年のミスター日本を目標においた訳だけど、この大会に目標をおいたのは何か意味があるのかな?
須江 はっきり言って2002年のミスター日本が、筋量の面でも、仕上がりの面でも、自分が大会に出場できる身体を作れる最短の時間だったからです。2001年の3月からトレーニングを再開したのですが、それまでは 本当に5年間丸っきりウエイトに触れていませんでしたので、1年半という期間が、自分がコンテストコンディションを作ることができる最短でした。本来ならば所属が東京なので、ミスター日本が東京で行われる時に出場すれば、ジムや職場の仲間が応援に来やすかったのですが、1年ではとても身体は作れませんし、2003年の大会では、今年の3月にまた移動がありそうなので、 出場できるか分かりませんでした。ですから、今の状況で出場できる大会となると、2002年の10月に行われたミスター日本しかなかったのです。
— 須江君は埼玉に住んでいるけど、東京のサンプレイに通うのってちょっと厳しかったんじゃないの。
須江 そうですね。通おうと思えば無理な話ではありませんが、やはり毎日終電で帰るようになりますので、翌日の仕事を考えるとそれは無理でした。県内にもジムは沢山ありますが、やはりサンプレイは学生時代からお世話になっていますので、出場するとしたらサンプレイからと決めていました。また、今回出場する際に自分で決めた事は、家庭に負担をかけないという事です。ですから、サンプレイには刺激をもらうために週に1回程度行って、後は自宅でトレーニングしました。
— 自宅という事は、ある程度設備を整えたの?
須江 全身を鍛えられるくらいの基本的な器具は揃えました。丁度大会へ出場しようかと考えていたときに、家を建てようかとも思っていましたので、これからもトレーニングするのであれば、家でできるようにしたいと考えました。妻には、他に何も望まないから、トレーニングできるスペースを作ってほしいと頼みましたね。ほんの6畳間ですが、ホームトレーニングでやってきました。