アメリカの国技にして世界ナンバーワンのメガスポーツ、アメリカンフットボールにおいて、日本人初の殿堂入りを果たした〝ベティ鈴木〟こと鈴木弘子さん。
日本のTV番組でも「身体能力が凄すぎるあまり54歳になってもやめさせてもらえない女性」として紹介され大きな話題を呼んだ鈴木さんの、まさに激レアな人生を、特別寄稿で振り返っていただきました。
ベティさんのアメフトヒストリー
1995年(30歳) 日本の女子クラブチーム「レディコング」でアメフトを始める
2000年(35歳) 米国で初めて創設された女子アメフトリーグのトライアウトに合格、日本人初プロアメフト選手になる。同年ディビジョン(地区)優勝しオールスター戦の先発にも選出
2002年(37歳) チーム「アリゾナカリエンテ」でリーグ準優勝
2011年(46歳) チーム「カリフォルニアクエイク」で準優勝
2012年(47歳) チーム「サンディエゴサージ」で悲願の初優勝
2013年(48歳) 世界選手権のアメリカ代表に選出される
2016年(51歳) 「パシフィックウォーリアーズ」のオーナーに就任、選手と兼任で全米8位に
2019年(55歳) 米国女子アメフトへの貢献により殿堂入り
東京・浅草で生まれ、シンクロナイズド(現アーティスティック)スイミングやスポーツインストラクターなどを経験してきた鈴木さんが、知人の勧めで日本の女子アメフトチームに入部、競技を始めたのは30歳のとき。「初めてアメフトの試合を見たのは自分が出た試合」というほど未知の世界だったが、豪快なぶつかり合いに見えて「作戦が作戦を凌いでいく緻密さ」を知るほど、アメフトに魅了されていったそう。
2000年、35歳のときに本場アメリカで初の女子リーグが創設されると聞くや、5日後に渡米。トライアウト(入団テスト)に合格し、男女を通じて日本人初のプロアメフト選手になった。173㎝・約70㎏と日本人としては恵まれた体格も、平均180㎝・120㎏の米国人選手の中に入れば埋もれてしまう。それでも体と心のタフネスで乗り越え、リーグ最長記録となる20年にわたり活躍。アメフト界では「ベティ」の愛称で誰からも知られ敬愛される存在となった。
今回の殿堂入りも、長年にわたり選手やコーチ、オーナーとして競技の成長・成熟に努めたこと、そして競技の魅力を日本はじめ世界に発信し、アメフトの普及に貢献したことが評価されたという。そんな鈴木さんに、いくつかのキーワードをベースに寄稿してもらい、20年間を振り返ってもらった。
米国での20年間で一番の喜び
競技者としては常に恵まれていたと思う。初年度からオールスターに選ばれ、最初の試合から引退する去年までの20年間で、スターター(先発)を外れたのはケガでの数試合だけ。こうすればよかった、ああすれば優勝できたかもという思いはあるけれど、その時点では一番の選択をしたと思う。コーチから「日本に帰って頭を冷やせ」と言われて、実際日本に帰されたこともあったけど、そのコーチとは今も一番の同志だ。
2000年の渡米から2012年の優勝までは長かった。個人競技ではないので、一人の力ではどうにもならない。あるチームではもっとお金さえあればと思ったし、あるチームでは肝心なところで主要選手がケガをした。このまま人生で優勝できずに終わるのかなあと思いながら、優勝できる確率を計算し溜息をついていた日々もあった。でも、そのほんの少ない確率の中、奇跡的に優勝することができた。だから、優勝できたことが何よりの喜びです。また、国籍の問題で出場できなかったけれど、数万人の選手の中から4年に一度行われる世界選手権の全米代表選手に選ばれたこと、そして今回の殿堂入り。この3つは今思い出しても鳥肌が立つほどの出来事です。
米国での20年間で一番の挫折
オーナーになってからはつらいことのほうが多かった。褒めて育てられたアメリカ人をまとめるのは本当に難しい。人気スポーツでない限り、オーナーという名の雑用係。選手のリクルート、コーチと契約して、フィールドを探して…選手の不満を解消して、スポンサーを探して、遠征の航空券やバスやホテルの手配。やっても、やっても仕事は終わらない。
頼みのボランティアスタッフはピンキリで、本当に素晴らしい人もいるし、無断で当日来ない人もいる。もうちょっと私が英語堪能で、コミュニケーションできたら違ったかもしれないと思っています。克服できたかは分からないけれど、マネージャー陣に適材適所で働いてもらい、チームワークで乗り切ることができたのではないでしょうか。
英語もままならない外国人の私に、国技であるアメリカンフットボールをやらせてくれ、全米優勝と全米代表に選出、そしてチームオーナー、殿堂入りの機会をくれたアメリカという国に心から感謝をしています。
女子プロスポーツへの理解・偏見
アメリカでは「女なのに男のスポーツをやっている」という偏見はなく、逆に「女なのにカッコいい」と言われることが多いと思う。それでも、あらゆる女子スポーツはギャラを含む待遇面では冷遇されています。女子アメフトの場合、やりたい選手はいる、やりたいコーチもいる、オーナーをやりたい人もいる。ただ、どうしても女子アメフトを見たいという観客がいないのが現状です。
それでも、日本の選手に比べてアメリカの選手のほうが、自分たちのやっている競技に誇りを持っているように見えます。スポーツバーでPR活動をすると、「どこのポジション?」ってたいてい聞かれるのですが、補欠の選手でも堂々と「私はレシーバーのバックアップ(補欠)」と答えます。アメフトをやっていること自体に誇りを持っている。「女子アメフトなんか…」「私なんか…」と思っている選手は一人もいないのです。
これはコーチも同じです。実際、私がオーナーだったときのヘッドコーチは子供、高校、大学、男子クラブチームのコーチを経験していましたが、友達やファンの前でも、「女子を教えるのが一番楽しい」と常に言ってくれていました。この「誇り」が、どんな境遇でも私たちがスポーツを続けている理由です。
体力的にはまだ十分、現役を続けられるが、「オーナーもやったし、優勝も経験した。もちろん何度も優勝はしたいけど、大きな目標はなくなったかな。でも、『アメフトのベティさん』という肩書がなくなってしまったら…」との迷いもあったという。殿堂入りは、そんな鈴木さんに一歩前に進む勇気を与えてくれた。「私が現役を長く続けられたのは、ボディビルに出会って栄養面を見直したことも大きい。これからはミロス・シャシブを師匠に、そして公私ともにパートナーとして世界に伝えていきたい」。
伝説のボディビルダーであり、有名選手を数多く育てる名トレーナーのシャシブ氏のセミナー開催をコーディネートするなど、今後はアメリカでの経験を活かし日本のスポーツ界に貢献していこうと思っている。
最後に、メッセージをお願いすると、鈴木さんだからこそ頼もしく説得力のある一言を贈ってくれた。
「物事を始めるのに、遅過ぎるということはありません」
ひろこ“べてぃ”すずき
1964年9月28日、東京出身。
高校時代はアーティスティックスイミングの選手として活躍。
短大在学中よりスポーツインストラクターとして水泳、エアロビクス、ウエイトトレーニングなどを指導。
1995年に日本の女子社会人フットボールチーム、レディコングに入団。
2000年米国プロリーグトライアウトに合格、日本人初の女子プロアメフト選手に。
以来20年間一線級で戦い続け、2019年、殿堂入りを機に引退を決断。
取材・文_藤村幸代
写真提供_鈴木弘子
Woman's SHAPE vol.20 掲載
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