昨年度の全日本パワーリフティング選手権120kg 級を制し、世界選手権にも出場した柴田道郎選手。その本職は石川県の小松基地に勤務する自衛官である。基地の体育館に公式台を持ち込み、1人で練習に取り組む柴田選手。その原動力の根底には、ある有名格闘家の存在があった。
取材:藤本かずまさ 撮影:北岡一浩 取材協力:航空自衛隊小松基地
――雑誌の取材を受けるのは今回が初めてだそうですね。
柴田 国際大会に出場したときに記録と一緒に私の写真が小さく載ったことはあるんですが、取材を受けるのは初めてです。これは謙遜しているわけではなく、私は全日本パワーも全日本ベンチも1回ずつしか優勝したことがないので。また、もともと私はずっと105㎏級に出ていたんです。
――2017年まで105㎏級でした。
柴田 でも、阿久津(貴史)選手にどうしても勝てなくて。トータルであと20、30㎏くらいまで近づいたことがあったのですが、正直、実力差を認めざるをえないです。だから、120㎏級に逃げたというのが正直なところです。
――そんな自分が雑誌に出ていいのだろうかと。
柴田 正直、そういう気持ちはあります。わざわざ取材していただく価値が私にあるのか、という葛藤はありました。
――競技歴は20年近くになります。パワーリフィティングを始めたきっかけは何だったのですか。
柴田 私は17歳のとき(1996年)に総合格闘技を始めて、26歳まで試合にも出ていたんです。私の地元の愛知県岡崎市に「誠ジム」という格闘技ジムがあって、同時期に所属していた美濃輪(育久)さん、後のミノワマンですね、彼とも1年ほど一緒に練習していました。
――そうなんですか。意外な事実が判明しました。
柴田 高校を卒業するまでは地元の誠ジムで練習していて、私もミノワマンのように強くなりたいと思って、自衛隊に入隊しました。最初に配属されたのは埼玉の入間基地でした。そこでパレストラ東京(現・パラエストラ東京)に入って、桜井“マッハ”速人選手、佐藤ルミナ選手、カーロス・ニュートン選手たちとスパーリングをやっていました。
――当時の夢はプロ格闘家になることだったのでしょうか。
柴田 夢のまた夢、という感じです。私はアマチュアの試合で勝ったり負けたりといった状況でした。ミノワマンほどの覚悟もありませんでした。プロになることは20代半ばでスパッと諦めました。
――そこからパワーの試合に出るようになったのは?
柴田 格闘技の補強でトレーニングはやっていたんです。20歳のときに小牧基地に配属されて愛知に戻ったんですが、そこでも格闘技は続けたんです。当時の私は80㎏くらいあったんですね。
――アマチュア格闘技では大型な部類に入ります。
柴田 スパーリングの相手も小柄な人が多く、練習が思い切りできないような状況でした。また、故障も多かった。そうした中で、思い切り力を発揮できるパワーリフィティングに徐々に興味を持つようになりました。当時、愛知にコジーマックスジムというジムがあったんです。そこに日本チャンピオンにもなった杉浦孝弘選手も来ていて、「柴田君は一生懸命にやれば日本で3位くらいにはなれるよ」と言われたんです。
――「3位くらい」というのも微妙な褒め方ですね。
柴田「優勝できるよ」とは言われませんでした(苦笑)。そこでその気になって、本格的にパワーをやってみようと思いました。
――基地でのお仕事は?
柴田 補給員として、当時は輸送と警備を担う隊にいました。クルマのタイヤとか警備に必要な資材とかを集める仕事です。「補給」という職種は退職するまで変わることはありません。今の小松基地に配属されたのは平成24年(2012年)です。
――試合記録をたどっていくと、つくばのジムに所属していた時期もありました。
柴田 3年に1回、陸・海・空が集まって開催する航空観閲式という行事があるんです。その準備要員として茨城の百里基地に平成26年(2014年)の1年間、臨時勤務していたことがあるんです。そのときの練習場所がパワーハウスつくばだったんです。金曜、土曜はそのジムで練習していました。
――そのころは週2回の練習だったのですか。
柴田 いえ、百里基地の救難隊にお願いして、平日はその施設で練習させてもらっていました。救難隊は航空救難員を養成する部署で、施設にはトレーニングの器具が揃っていたんです。
――そして週末だけジムに通っていたんですね。
柴田 そのパワーハウスつくばに通っていた時期に、初めてベンチプレスで日本記録を出せたんです。パワーハウスつくばはパワーリフィティング専門のジムだったので、練習がやりやすかったというのはあったかもしれません。また、オーナーの瀬尾(桂一)さんが練習のときも試合のときも付きっきりでサポートしてくれました。日本記録が出せたのは瀬尾さんのおかげです。
――転勤のたびに練習環境を自分で整えていく必要があったと思います。
柴田 そうなんです。ここに配属された当初、小松にはパワー専門ジムもないので、パワーリフティングを続けられるのかという不安がありました。ですが、石川県パワーリフティング協会の会長が社長を務めている日本美装という会社があって、そこは石川県協会の本部道場でもあって、パワーラインの公式台も置かれていたんです。
――どのようにしてつながったのですか。
柴田 石川県には森岡一義さんというマスターズⅠのベンチプレスで世界チャンピオンになった方がいて、その方の伝手です。まず森岡さんにコンタクトを取って「今度、小松に転勤することになったんですが、そこでもパワーを続けたいんです」と相談しました。その後、基地から許可を経て、体育館に公式台を置かせてもらうようになりました。すごくいい環境で練習ができています。
――パワーリフティングに情熱がないとできないことだと思います。
柴田 この競技が大好きなんです。私よりも強い選手がたくさんいるので、少しでも近づきたいという気持ちで取り組んでいます。
――「公式台を置かせてください」というのも勇気のいるお願いではないでしょうか。
柴田 はい、勇気はいりました。そこで「ダメだ」と言われたら、終わってしまうので。でも、快く許可していただき、練習環境を整えることができました。
――環境が変わって競技を続けられなくなる人もたくさんいらっしゃいます。
柴田 私の場合は自衛隊のおかげです。理解していただき、専門ジムがない中、いい練習場所を提供していただいたので続けられます。
――普段は1人で練習しているのですか。
柴田 はい、大会前以外は1人で練習しています。練習は週に4回。ベンチプレスが2回、スクワット、デッドリフトが1回です。
――専門ジムでチームで練習している選手には負けたくない、という意地のようなものはあるのでしょうか。
柴田 あるんですが、やはり差は感じます。私は田舎で1人で練習していて、誰も私のことなんか知らないので、どの会場に行ってもアウェイなんです。だからこそ「ここで勝ったら面白い!」とは思います。
――国際大会に出場するときはお休みを取るのですか。
柴田 はい、昨年の世界選手権も有給休暇を取って遠征しました。自衛隊の体育種目にパワーリフティングは入っていないので、自分で休みを取って遠征します。いつも快く送り出していただき、応援もしてくれるので、ありがたいと思っています。
―― 柴田選手は自分の練習をSNSなどにアップすることがありません。規則でNGなのですか。
柴田 いえ、NGではありません。私はSNSで自分をアピールできるほどの選手ではないんです。
――その自信のなさが競技を続けられる要因でもあるのでしょうか。
柴田 そうかもしれません。フォーミュラで見れば、私は全日本出場選手の平均以下だと思います。もっと伸ばしていかないと劣等感は消えないです。
――総合格闘技で叶わなかった夢をパワーリフティングで追いかけている?
柴田 それはあります。17歳のときにミノワマンに初めて触れて、一緒にスパーリングをして、彼にはとてもかわいがってもらいました。私はミノワマンのようになりたいと思っていました。でも、なれなかった。私には無理でした。ミノワマンは体重差のあるシウバやミルコと戦ってきましたが、私はパワーリフティングの世界大会で1位の選手に300㎏の差をつけられたところで、痛くもかゆくもありません。ミノワマンに比べれば、(私の苦労なんて)全然です。決して彼のマネはできませんが、ミノワマンの存在は私の原動力になっています。
――いつか、胸を張ってミノワマンと再会したい?
柴田 私の今の目標は3 種の105㎏級マスターズⅠのベンチプレスの世界記録です。世界記録が295㎏で、それは私が普段の練習で扱っている重量なんです。少し減量が必要ですが、狙える記録だと思っています。また、3種の120㎏級マスターズⅠのアジア記録は、デッドリフト以外は狙える位置にあります。マスターズⅠのベンチプレスのアジア記録だけは持っているんですが、トータル、スクワット、そしてベンチプレスを更新して、アジアの記録保持者になりたいです。私なんか本当に大した選手じゃないのですが、アジア記録保持者になったら、ミノワマンと再会したときに「今はパワーリフティングで頑張っています」と言えるかもしれません。
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柴田道郎(しばた・みちお)
1978年12月16日生まれ、愛知県岡崎市出身。身長173㎝体重110kg。
主な戦績:
2012年 全日本ベンチプレス全選手権105kg級優勝
2019年 全日本選手権120kg級優勝
自己ベスト(フルギア):スクワット322.5kg、ベンチプレス303kg、デッドリフト272.5kg趣味:テニス。「中学はソフトテニス、高校生で公式テニスをやっていました。かなりブランクがあったのですが、7、8年ほど前に再開して、今も基地のテニス部の部員です。毎年のように市民大会にも出ています」
執筆者:藤本かずまさ
IRONMAN等を中心にトレーニング系メディア、書籍で執筆・編集活動を展開中。好きな言葉は「血中アミノ酸濃度」「同化作用」。株式会社プッシュアップ代表。