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失明なんか関係ない!ボディビルに生涯を捧げた夫婦の物語|合戸孝二夫妻

狂気の男という異名を持つ日本屈指のボディビルダー・合戸孝二選手。医師から「ステロイド治療をしないと左目が失明する」と宣告されたが、合戸選手はわずかでもドーピングを疑われるようなことは嫌で、治療を拒否した。そして左目の視力を失ってまでトレーニングを続け、世界選手権で4位に輝き、「(視力を失うことは)トレーニングに支障はないことだからなんでもないことだよ」と言ったことは有名な話。ボディビルに生涯を捧げた合戸選手とともに、生涯を捧げた真理子夫人。夫婦が歩んだ軌跡を振り返ったアイアンマン2021年7月号から二人の原点であるジム経営の秘話を紹介する。

<本記事の内容>
失明は大したことじゃない!?『合戸孝二=マグロ』論
自分のトレーニングのためのジムオープン(マッスルハウスジム)
『ボディビルダー合戸孝二』一 番のこだわり集中力は3時間が限界!?
好きだからできて、さらに追求する行き着いた『誰もやらない合戸式』
感謝の気持ちしかない!究極の夫婦形態
ボディビルダー合戸孝二の矜持

──60歳(2021年6月に取材)になられた感想を聞かせてください!

合戸 60歳だからって別に何もないよ。60年間この身体を酷使してきて「ボロボロになっちゃったなぁ」っていう感じかなぁ。理想のトレーニングができなくなってるのは感じるね。でも実際なってみたら、それほど変わらないなっていうのが実感だよ。 俺は海外派遣などに何度も参加させてもらって、その度に今は亡き玉利会長とも親しくさせていただいた。会長に、ボディビルダーとして育てられたと信じてる。53歳のとき、会長がまだ元気だったころ「合戸くんはいつまでやるんだ?」って聞かれて「自分は60歳になっても会長がビックリするような身体を見せますよ!」って答えた。すると「そりゃ頼もしい!それを見届けなきゃならないな!」って言ってくれたんで「元気で長生きしてください!」と返す刀で答えたのさ。『漢と漢の約束』を交わしたわけだ。残念ながら会長は旅立たれたけれども、この節目は、約束を果たす大事な年でもあるんだ。さらに進化を遂げた身体を創り上げ、今は亡き会長に捧げる。今年は、そういう大事な年なんだ。

──玉利会長との約束を果たす年なんですね。それでは、 今年の日本選手権への意気込みや、現在の調子など聞かせていただけますか?

合戸 重きを置いているのは、海外派遣資格が掛かっている日本クラス別だね。だから、そっちが中心で、日本選手権はいつも通りに平常心で臨む。そこまで生きていればね(笑)。まぁ、毎年、そういう冗談を言っているけれども、出場選手は皆、命をかけて取り組んでいる。「無事にその日を迎えられればいいなぁ」というのは半分マジなんだよ。 久し振りに長いオフが取れてリフレッシュできた。そもそも、大会が中止にならなくとも去年は丸々休む予定でいたんだ。それは、契約しているケンタイ(健康体力研究所)にも申し入れてあった。毎年同じことの繰り返しだったんで、60歳で気持ちも新たに挑戦したいって強く思ったからだよ。実際に2年間過ごしてみて、とりあえずはトレーニングは順調にできていたんで、概ねいい感じだ。『玉利会長との約束』を果たせる身体に進化できてると思うよ。

──60歳になっても進化って……本当にすごいですね。さて、ボディビルを始めたきっかけや初期のころのエピソードなど聞かせてもらえますか?

合戸 最初っから「ボディビルダーになろう」なんていう気は毛頭なかったよ! 「ちょっとカッコいい身体になりたい」くらいでフィットネスクラブへ通い始めたんだ。「女子との出会いを求めて」っていう不純な動機がメインだったかな。そういう訳だから最初は、トレーニングしてるのかどうか分からないくらいだった。 ボディビルとの出会いは県大会を見たときだ。「俺もあんな身体になってみたい!」って、すぐに加盟ジムへの移籍をした。福代ジムへ乗り込んだんだけど、ガラス越しにものすごい身体をした人がトレーニングしてて「人間、あんなになるのかぁ! 俺はあそこまではなれないだろう……」っていうほどの衝撃だった。でも、気を取り直して入会手続きは済ませたんだよ。今思えば、あの『福代ジム時代』が一番楽しかったかなぁ。河原さん※とかもいて、結構選手が多くいて切磋琢磨してた。※河原さん:河原春海氏。静岡県牧之原市のTraining GYMReviveのオーナー。3歳年上のボディビルダー。 減量になるとみんなで自転車で御前崎までサイクリング、ジムの駐車場で日焼けと、同じ目標に向かって邁進する若者たちの熱気に溢れてたよ。補助は良くやった。特にハックはスゴかったね。補助30とか、補助50なんてやってたよ!

──それって、どういうことですか!? 何発もやった後で補助入るんですか?

合戸 自力で10発とかだよ。で、補助30、河原さんは補助50。もう途中で意識朦朧として、目なんて完全にイっちゃってるんだよね。汗ダラダラかいてるのに、補助30くらいになると汗がスーッと引いちゃうんだよ! で、止まっちゃったら『ヒザかっくん』やってあげるんだ。するとストンと落ちてさ。ほんと楽しかったなぁ。だから、誰かがハック入るのを待ち構えてるんだよ(笑)。同じルーティンで回してるから、次だってバレちゃうんだよ。自分も順番がきたら「あー来ちゃったか」って覚悟を決めてやってた。そんな時代だったよ。そこには4~5年、通って、真理ちゃんとも出会ったんだ。

真理子 あたしは高校3年生で、部活のバスケを止めて少し太り始めたんで、ダイエットのために会員だった母に連れられて入会したんです。「静岡県のチャンピオンなのよ」って母に紹介されたのが出会いでした。「ものすごく脚の太いカッコいいお兄さん」っていう感じでしたね。主人は一回り上でしたから、それ以上の感情はなかったです。ところが、県外の専門学校へ行くことが決まっていて、その引っ越しの手伝いを母が頼んだことで変わっていったんです。

──合戸選手がその後、真理子さんとお付き合いするようになって2年くらい全くトレーニングから離れてしまったというのは有名な話しですね!

合戸 そんなこともあったかなぁ(笑)。

──今こうして仲睦まじく夫婦二人三脚で邁進されているわけですから良い出会いだったんでしょうね。ところで、最大のピンチや苦しかったことなど聞かせていただけますか? やはり失明の危機は外せないでしょうね。

失明は大したことじゃない!?『合戸孝二=マグロ』論

合戸 最大のピンチは、ジムをやり始めて2年目くらいのとき、35~36歳のときに腰を痛めたことだろうね。脚トレの翌日に、起きられないくらいめっちゃ腰が痛くて、左脚が付け根から全部痺れたんだ。そのうちアキレス腱が断裂しそうな痛みが走って、最終的には寝ることもできない状態になって、ついにトレーニングもできなくなっちゃったんだよ。トイレも這って行くようだし、病院へ行こうとしても車に乗れない! それが3週間続いた。まぁ、病院はいい思い出がなかったし、自然治癒力にかけたよ。痛みでトレーニングができなくなったときには「俺のボディビル人生終わったな」って思ったよ。

真理子 あの一件で「トレーニングしながら治す」っていうのを確立したんじゃないかしら。3週間くらい過ぎて、痛みが引き始めてからは騙し騙しトレーニングを始めて快方へ向かったもんね。

合戸 あとはまぁ、5年前の肩(胸郭出口症候群)やったときだな。目は全然、大したことじゃないよ。だってトレーニングできてるもの。腰や肩はトレーニングに支障が出たからピンチさ。でも目はトレーニングには全く影響しなかったからなんでもないよ。

──えぇ! 左目、今でも見えないんですよね! なんでもないことですかぁ!

合戸 その年に初めて世界選手権行って、4位になったんだよ。で、帰ってきて左目の視力がなくなった。それまでの一年はトレーニングもかなりハードに追い込んで、減量とかもかなり無理したし、でもその甲斐あって日本人では久し振りの4位という順位をもらったんだ。それが「左目との交換だったんだな」って思ってる。トレーニングには支障がないんだからなんでもないことだよ。腰は、丸々3週間何もできなかった。肩は、脚と背中は普通にできたし、押す動きに支障が出たけどそれでも騙し騙しできたんだ。だから、腰が一番の衝撃で、次が肩、目はピンチでもなんでもなかったよ。

真理子 主人は、トレーニングができていれば大丈夫なんです。自分の思うようなトレーニングができないことが一番のストレスで、泳ぎ続けていないと死んじゃうマグロと一緒なんです(笑)。

──マグロと一緒って……。左目と世界選手権4位が交換ね。なるほど、そういう考えもあるんですね。肩のケガについてもう少し詳しく聞かせてください。

合戸 起こる前は、もうほんとに身体がヤバかったんだよ。24時間パンプしているような状態だったんだ。特に僧帽から腕に掛けて異常な張りで、ゲストのときにもパンパンで「なんか異変が起きてるのかな?」って感じてた。あれが前兆だったんだろうな。で、74㎏くらいまで減量が進んでたときにラットプルで戻すときヒジをやっちゃって、翌日の肩トレで130㎏のフロントプレスをやってるときに潰れたんだ。真理ちゃんがすぐに支えてくれたから外傷はなかったんだけど、次の日の朝、胸トレでベンチのアップをしようと思ったら60 ㎏が挙がらないんだよ! 右は押せるけど左に全く力が入らない。何が起こったか分からなかったね。だって痛みは全くなかったからね。

真理子 それですぐに治療院へ行ったりしたけれど、はっきりとした原因が分からなくて日体大の岡田(隆)先生に相談したら「合戸さん、神経やっちゃいましたね」って。

合戸 それを聞いて「あぁ、原因が分かって良かったなぁ」ってことだよ。

──原因が分かるのは良いことに違いないですが、神経がイッちゃうってショックじゃないですか?どのように復活されたんですか?

合戸 正直、復活はしてないよ。60㎏のベンチからやり直して、半年後くらいにはなんとか130㎏くらいまでは押せるように戻したけど、復活とは程遠いね。

自分のトレーニングのためのジムオープン

──ジムを始めた頃というのは生活はどんな感じでしたか?

合戸 生活は、もう常に苦しかったよ! 特にそのころは、本当に『その日暮らし』のような状態だったよ。

──合戸ご夫妻は、そもそもジム経営を目指してジムをオープンしたんではないんですよね?

合戸 ジム経営をしようなんて、そんな大それたことを考えちゃいなかった。自分のやりたいトレーニングをしたいから、自分のジムを作るしかないなって思って始めたんだよ。俺は真理ちゃんに熱を上げて、まるっきり2年間トレーニングしていなかったんだ。真理ちゃんが平塚の歯科衛生士の学校へ通っているとき、そこに入り浸ってたわけだよ。で、2年もトレーニングしてないわけだから当然身体も鈍るわな。そこで「また真剣に取り組もう!」と一念発起したんだ。そのとき、たまたま月ボを見たら海外の選手が行ってる『ダブルスプリット法』っていうのが目に付いて「おぉ!これしかねぇな!」って閃いたんだよ。だけど、考えてもみろ。静岡の田舎で毎日朝から開いてるジムなんてないんだよ。だったら自分でジムを作るしかねぇなっていうことだ。 たまたま親父の持ち家があったから、そこの壁を全部ぶち抜いてジムとして使えるスペースを確保した。運良く近くに生コン屋さんがあって、夕方になると余った生コンを処理しなきゃならなくて『捨てコン』っていうんだけど、それをもらえるんだよ。俺はちゃんとゴム手してたけど、20歳かそこらの真理ちゃんはドロンコ遊びと間違えて手で撫でるから翌日には肌荒れしちゃってさ。それで、その家を担保に銀行から200万円借り入れをして、それを元手にマシンを全部自作して、マイナスからのスタートだったよ。どうやって暮らして行こうなんて全く考えてなかったから、ほんとにその日暮らしだったよ!

真理子 平塚から戻って静岡で暮らし始めたある日の朝、急に家の中でものすごい音がするんですよ。「なんだろう?」って見てみると主人が大きなハンマーで壁を壊してるんでビックリしました!「ジムやるぞ!」って言われて「そうなんだ」っていう感じでしたね。まだ若かったし、それほど先のことを真剣に考えるというようなことはなかったですね。 ジムを作るのにも毎日朝から晩まで掛かって、出来上がったら今度はトレーニングに朝から晩までという生活が始まったので、本当にその当時はどうやって暮らして行くとか、そういうことに頓着している時間的にも、金銭的にも余裕なんてまったくなかったんです。そのころはサプリメントだってほとんど摂っていなかったと思います。ただ、運良くジムを作っているときから「ここには何ができるの?」なんていう人がいて、そういう人たちが自然発生的に会員さんになってくれたので日銭が入るようになってきて、それで日々の生活が成り立ってた感じでした!中部選手権の優勝が一番うれしかった!!

──それでは、うれしかったことはなんでしょうか?

真理子 あたしはジムをやり始めてすぐに中部(今の東海選手権)を獲ったときがすごくうれしかったわ! 右も左も分からない状態から補助をするようになって、半年間一生懸命力を合わせて取り組んで、初めてのタイトルだったんで感無量でした! 元々トレーニングしていたわけでもないので、種目の名前すら分からないんです。なのでまずは名前、どこに効くのか、そしてどこに何枚のパットを、どう入れるかまで細かくノートに書き込んでやってました。今思い出すと、あのころって一日中トレーニングしていた思い出しか浮かんでこないんです! 午前中に背中やって、午後に胸、トレだけで8時間、加えて食事作って日焼けの手伝いして、朝起きるのも早かったですし……。ボディビルから離れられるのは寝ているときだけでしたね。

合戸 俺はやっぱり、全日本で初優勝したときかなぁ。それまで2位が続いて悔しい想いが続いてたからなぁ。その年にはそれまで勝ってた田代(誠)くんが出ないって言ったんだよ。田代くんが出ないで勝っても「それじゃぁ意味がないなぁ」ってテンション下がっちゃって、そしたら田代くんが出てくれて戦った末に勝つことができたんだ。あれはうれしかったね。あとはモンゴルで初優勝したときにアウェイの地で、君が代を流せたときにはジーンと来たね。

真理子 モンゴルのときは留守番で現地で見られなかったので、それはあとで聞いてとても心残りでした。

『ボディビルダー合戸孝二』一 番のこだわり集中力は3時間が限界!?

──トレーニングについて、一番 こだわっていることはなんですか? 現在のトレ法も合わせて教えてください。

合戸 一番こだわっているのは「高重量で伸ばし切って完全収縮」だよ。これに尽きるね。今のはショボいもんだよ。年齢を重ねて衰えっていうものがある。昔とは同じことができない、それならば「何とか強度を保つよう努力しよう」っていうのが今のアプローチ。一日8時間できたことが40代になったら、その半分しかできなくなった。50を過ぎれば、扱う重量だって落ちてくる。一番良いときの状態にどうやって近づけるかっていうことを常に考えるんだ。毎年、自分にできることを模索しながらやってる。今はもう3時間しか集中力が持たないんだ。だから、今は同じ部位を2日続けて行うようにしてる。 胸の初日はベンチ、Uバー、それにダンベル系やマシンのプレス。しばらく振りにダンベルプルオーバーも再開した。2日目はUバーだね。かなり筋肉痛が残っているけど、さらにやり込むことでものすごくパンプする。それでディップスに肩もやる。背中は、今ヒジを痛めてるんでデッドができない日が多いけど、できるときはデッドから入ってあとはダンベルロウイング。10セットくらいずつ多めに。次の日はマシンのロウイング系とラットマシン。脚の初日は、エクステンションとカールだけ。翌日はレバレッジとプレスをやってる。エクステンションは10セットくらいはやり込んでるよ。2日目にはかなりパンプしてるんで、追い討ちを掛けるようなパンプをさせるんだ。そうすると、1セット目からガッてくる! 事前疲労っていうレベルじゃないけど、まぁそんな感じだよ。とにかく年齢を重ねてできなくなってきてるから、回数を分けてやるってことだよ。

好きだからできて、さらに追求する行き着いた『誰もやらない合戸式』

──ここまで続けられた理由はなんだと思いますか?

合戸 そりゃ「好きだから」だよ。よく「メンタル強い」とか「根性ある」って言われるけど「それってなぁに?」って感じだよ。「好きだから」が頂点だから、メンタルや根性は消え去っちゃうんだ。もしもメンタルや根性が頂点だったら「根性論」になっちゃうし、それじゃ続かないよ。「好きだから」ダブルトレーニングもするし、なんでも追求しちゃうんだよ。「こうすりゃもっと身体が良くなるんじゃないか!?」って思うんだよ。トレ中に、色々なアイディアが降りてくるんだ。

真理子 楽しさの沸点がそこなんですよね。どんなに高重量と戦っていても常にそういうこと考えてるらしくて、終わると「次は重量、増やせるな」って毎回言ってくるんです。それ聞いて「あー、次はもっとキツくなるなぁ」って……。高重量を扱えることはすなわち「筋肥大」するという、主人にとってはごく単純な考えなんですよね。

合戸 ベンチしているとき、誰でも挙げるのに必死だ。俺は「いいところで肩甲骨、当たっちゃうよね」っていうのが降りてくるんだ。それで、パットを敷くことを考えついたりする。でも「まだストレッチできるよね!?」って、さらにその上を行く考えからUバーが生まれたんだよ。それで出来上がったのが『誰もやらない合戸式』なんだよ。セット数にしても「もっとやればもっと効くんじゃないか!?」って行き着いた先が10セットなんだよ。それはどうしてかって言ったら「楽しいから」だよ。中途半端なセット数で「程よいパンプ」なんて大っ嫌いだから「もうこれ以上パンプしない!」っていうのを目指してやってる。楽しくないとできないかもしれないね。

感謝の気持ちしかない!究極の夫婦形態

──真理子さんの存在と献身的努力への感謝の気持ちはいかがですか?

合戸 ジムを始めた頃からずっと支えてくれたことは、もう感謝の気持ちしかないよ。最初の頃は補助のタイミングとかが合わなくて衝突したこともあったけど、それを乗り越えて1から10までサポートしてきてくれたから、今の合戸孝二がある。俺の望むトレーニングをやらせてもらって、もう一番の感謝だね。原点は真理ちゃんが献身的に尽くしてくれたことだね。

真理子 うちは特殊。普通の夫婦じゃないからね(笑)。

──喧嘩もあるかと思うんですが、補助に降りてこない(合戸ご夫妻はジムの二階が住居)なんてありましたか?(2人声を揃えて)それはないね!

合戸 喧嘩はしても、トレーニングは別。ひとりで始めて真理ちゃんが降りて来て「今日はいいよ!」なんて言ったこともあるかな。最近はなくなったけど……。

真理子 あたしにとっては、補助は仕事ですから。一度くらい、ギックリ腰でできなかったことがあったかしら。

──やっぱり普通のご夫婦ではないですね! 真理子さんにとって「この補助は好き」とか「これは嫌だ」というものはありますか?

真理子 「これは好き」っていうのはとりあえずないわね(笑)。精神的に嫌いなのはベンチ。挙がればご機嫌ですけど挙がらないと一日ずっと不機嫌になるので、ベンチの補助はとても緊張します。肉体的に辛かったのは、セーフティスクワットですね。345㎏でやってたときもフルレンジで、一緒にボトムから補助するのでまるで自分がフルスクワットしている状態でしたし、終わったらすぐにラックをあてがわなくてはならなかったので本当にキツかったですね。

──それは大変でしたね。真理子さんが今、思うことを聞かせていただけますか?

真理子 よもやボディビルダーと結婚するなんて思っていなくて、ジムを始めたころもまさかこれほど長く続くとは思っていなかったんです! あたしは、ひとつのことを長く続けるのが苦手なんですね。主人は何があっても止めずに続けているので、そこは本当に尊敬しています。大変なときもあったけど、振り返ったらあっという間でした。夫婦になるってこういうことだと思っていたので、特に疑問にも感じずに続けられましたね。

──合戸さんに直してほしいところはありますか?

真理子 あたしは過ぎたことは気にしないタイプなんですけど、主人はそういうところがとても繊細なんです。ガンガンにやっていたときと比べて、今はそれができないからって落ち込んだりしないで、もっと気楽に取り組めばいいのになぁって思います。それから、もう少し身体を休めてあげて欲しいと思いますね。

合戸 テーピングまみれになってもやり続けてるからね(笑)。MAX10の痛みを知っているから、それが9になればやるんだよ。

真理子 トレーニングを始めるまでに1時間も試行錯誤して、なんとか痛みを緩和できる方法が見つかれば、即トレ再開なんですよ。本人にしてみると「できないことが悔しい」から「休むという選択肢」がないんですね。治しながらやるっていうのが主人の見出だしたやり方なんです。本人はあくまでやり込まないと気が済まないんですね。まぁ、やり込んでこそはじめて『合戸孝二』なんでしょうけれど……。

──合戸孝二たる所以ですね!一緒になって良かったことはなんですか?

真理子 補助に付いていることで自分自身の運動にもなるので、それはとても良いと感じてます。それと、一緒になったことで普通は経験できなかったことなどもできて、得たものは大きいと感じてます。

ボディビルダー合戸孝二の矜持

──最後に、若い読者へのメッセージなど伺えますか?

合戸 俺のトレーニングを見て古いって感じるかもしれないけど、これこそが俺の信じる筋肥大への道であり「今あなたたちのやってるトレーニングでこの60歳の俺を打ち負かせるの?」って聞きたいね。誰もやってないことをやり込んでるから、60歳でもこの身体を維持できている。『ちょっといい身体』を目指すのか『究極の筋肥大』を目指すかの違いだよね。残念ながらラクしてデカくなる方法はないんだよ。ボディビルに関しては、一番大切なのは筋量であり、そして絞りだ。「デカく見せよう!」と絞り切らないのはダメだ。絞り切って自分の出るクラスよりもひとつ上のクラスの身体に見えるようになって初めて一人前。きっちり絞り切って70㎏級の身体にすると、見た目は75㎏級に見えてくる。絞り切ることで本当の筋量が見えてくる。ボディビルってそういうもんだ。 俺は、オフにはジャンクも食うし、タンパク質も脂肪もしっかり摂ってハードトレーニングをして筋量を増やしてきた。若いうちは、ガンガンやって筋量増やさないと。自分が何を目指すのかを明確にすれば、自ずと何をすべきか見えてくるんじゃないのかな。競技のためにやっているのか、好きでやっているのか、そういうことだ。俺のやってるトレーニングを1~2年みっちりやれば誰でもデカくなるよ。だけど、みんなできない。やればいいと分かってるけど、辛いからやらない、ラクな方法はないか探す。それじゃ合戸孝二にはなれないよ。誰でもできるトレーニングで大きくなれば苦労はしない。こんな身体して偉そうなこと言ってるけど、最初はボディビルジムに入会するのさえ躊躇するくらいだった。それが、どうやったら大きくなれるか毎日考えて、突き詰めて、頑張って、こうなったんだ。県大会レベルでビビってた。ひとつずつ階段を上がって来たわけだ。限界を決めないことが大切。今のステージよりも上を目指すなら、今よりもハードなことをやるしかないだろ? それを楽しめるかどうかが、鍵だな。

これこそが、まさに『ボディビルダー合戸孝二』の矜持です。東京五輪女子マラソン代表の一山麻緒選手を指導している永山(忠幸)監督は「強くなりたかったら今より厳しい練習するしかないんだよ」と言いました。まさに合戸夫妻の歩んで来た道と同じものです。 『究極の筋肥大』を求めて、夫婦で力を合わせて辿り着いた境地に何が見えるのでしょう。それは今年の日本クラス別選手権、そしてMr.日本で明らかになるでしょう。

文・撮影:岡部みつる 写真協力:健康体力研究所


岡部みつる
東京都出身。昭和の終焉に渡米。’93年、米マスキュラーデベロップメント誌のチーフフォトグラファーに。以後、アイアンマン、マッスルマグ、フレックス等各誌に写真を提供。’96年にはMOCVIDEOを設立、コールマン、カトラー等オリンピア級選手のビデオ、約50本を制作。「オリンピアへの道」は12年続け、「オリンピアへ出るよりもこのビデオに出られてうれしい!」と選手が言うほどに。’08年、会社を売却しワイフと愛犬とともに帰国。静岡県の山中に愛犬とワイフの4人暮らし。


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