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田代誠が「これでボディビルを辞めずに頑張れるかな」と思った試合

日本のトップボディビルダー田代誠選手が長いキャリアの中で思い出深いと語る試合について、当時のエピソードを語ってくれた。自らの競技人生を大きく変えるきっかけとなったあの日、あの時、あの試合――。

取材・文:IM編集部

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1998年ジャパンオープンボディビル選手権2位

初めてジャパンオープンに出た98年は、まだ鹿児島で町役場に勤めていたころです。19歳から試合に出て、ずっとボディビルで成功したいという気持ちでやってきましたが、鹿児島県のタイトルを獲った年(95年)の冬に、所属していたジムがつぶれてしまい、自分の練習場が必要だったので、借金してジムを作って、そこでトレーニングしていました。

ジムには会員さんもいましたが、練習場の延長ですから、ビジネス的にはうまくいくわけありません。毎月、借金の返済に追われて、自分の給料を返済にあてていましたが、光熱費やら修理費でお金が湯水のように出ていきました。ボディビルをやりたくてジムを作ったのに、家計はずっと苦しいままで、大会に出たくても出られない年もありました。結局、97年は九州大会だけ出ましたが6位。その大会が終わった後に、さすがに、もうしんどいなと思いました。やめたくないけど、やめたい。そんな複雑な気持ちでした。

そのとき27歳でしたが、それくらいの年齢になると、そろそろ現実的に将来のことも考えますよね。このまま一生、貧乏生活で結果を残せない人生なのかなと。そこで今後のことも考えて、来年1年間、どれだけ借金してもいいから、ボディビルに懸けてみようと思いました。

実際、試合に勝ったからといって、生活が楽になるわけではないのですが、そういう状況下でも、自分が目指しているもので結果が残せたら満足するだろうと。それをひとつの指標にして人生頑張れるかもしれないという気持ちで、もし通用しなかったら、ここでスパッとやめようと思っていました。金がかかったら、試合が終わってから返せばいいと。ボディビルやめて死ぬ気で働けば、借金返すことくらいできるだろうとは考えていました。

98年はまず九州選手権で優勝して西日本で2位に入りました。その次に出たのが三重で開催されたジャパンオープンでした。西日本で2位になっているとはいえ、今の西日本と違って、近畿は入っていませんでしたから、実際は九州・中四国大会です。その3地区で通用しているだけの選手です。ジャパンオープンではなんとか予選だけは通過したいという気持ちでした。

全日本レベルの大会は初めてでしたし、心配性なので、少し早目に会場入りしたのを覚えています。ロビーで受付を待っていると、雑誌で見たことあるような選手がぞろぞろ入ってきました。一番インパクトあったのが、井上浩さん。「でかい!こんな人とこのレベルで勝負になるのか?」と思いましたね。しかもそのときの井上さんはタンクトップに赤いリストバンドという出で立ちだったので、それも強烈でした(笑)。谷野(義弘)さんもゲストでこられていて、初めて生で見ました。さすがオーラがありましたね。

試合が始まって、一番うれしかったのは、ピックアップに呼ばれたことです。「よっしゃ!」って思いました。自分の立ち位置も分かりませんでしたし、なんとか予選通過したいと思っていたので、呼んでもらえたのはうれしかったです。もし予選通過できなくても、体を見てもらえた上での結果なら納得できますから。

ふと審査員席を見ると、何か揉めていました。どうやら明らかに上位に入る選手なのに、どうしてピックアップで呼ぶんだ、というような話をしていたらしいです。

結局、そのピックアップはなにかの間違いということで、すぐ戻されました。ここで予選は通過できそうな雰囲気は感じました。

その後、試合中に初めてドーピング検査にも指名されました。指名されるということは、なんらかのインパクトがあったということですから「もしかしたら5位くらいに入れるんじゃないか」と思いました。終わってみれば結果は2位で、1位は難波(文義)さんでした。

ジャパンオープンで2位になれたことで、全国でも自分は通用するんだと分かり、これでボディビルをやめずに頑張れるかなと思いました。大会記事を雑誌に大きく取り上げてもらったのもうれしかったですね。それまで鹿児島大会とかの写真を小さく掲載してもらったことはありますが、大きくカラーで取り上げてもらったのは初めてでしたので、感慨深かったです。

その年はジャパンオープンで終わりにする予定でしたが、当時の九州理事長だった政枝さんに、「絶対通用するからミスター日本も出ろ!」と強くプッシュしていただき、初めてミスター日本に出場しました。相変わらずお金がなかったので飛行機代は人から借りて大阪まで行ったのを覚えています。ミスター日本では3位になれたので、世界選手権にも派遣していただきました。1年で5回も試合に出たのはこの年だけです。

あれからいろいろな試合に出ましたが、鮮明に覚えているのは98年のジャパンオープンだけです。それ以外の試合はあまり記憶に残っていません。いい成績を収めたからといって、何か状況が変わるというわけではないのですが、人間、何かをきっかけに、心の持ちようが変わるんだなと分かりました。踏ん切りを付けて出場してよかったなと思っています。

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佐藤奈々子選手
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