30代半ばにして「伝説」と呼ばれた男がいる。昨年でデビュー35年、今年で復帰して20年を迎えた須江正尋選手である。日本一の背中と称され、ジュニア世代のビルダーたちからもリスペクトを集める彼の軌跡を振り返るとともに、そのボディビル哲学に迫った。
取材・文:藤本かずまさ 写真:徳江正之、中島康介、月刊ボディビルディング編集部
甦る 須江正尋伝説
――近年、ボディビルにも若い選手が増えてきました。そうした選手の中には須江選手をリスペクトしている人達は多いようで、SNS上に須江選手のフリーポーズの動画が上がってくることがあります。
須江 昭和の歌謡曲が若い世代に受けている、みたいな感じではないでしょうか(苦笑)。私はSNSに疎くてハッシュタグの使い方も分かっていないのですが(苦笑)、確かに私のジムにいらしていただいている方は若い方が中心です。大々的に宣伝しているわけでもないのに、よく探し当ててきてくれると思います。
――須江選手が10代を過ごした1980年代、ボディビルにはどのようにして出会ったのでしょうか。
須江 私は元々体が小さく、強いものや大きなものに対する憧れを持っていました。そして、中学校の体育の授業で、アイソメトリックストレーニングを教わったんです。鍛えれば体が強くなるということを、そのときそこで知りました。当時は体を作るというよりも、力を強くしたかった、という思いのほうが強かったかもしれません。最初は腕立て伏せも2、3回しか出来なかったのが、10回できるようになり、20回できるようになり、そして何ヶ月か続けていると100回くらいにできるようになりました。この頃はやればやるほどいいんだろうと思っていて、朝起きてすぐ100回、学校に行く前にまた100回と、合計で1日1000回の腕立て伏せをノルマにしていました。他にも、鉄アレイとかハンドグリップとかエキスパンダーとか。
――昭和の家トレーニングの定番アイテムですね。
須江 そうした自己流のトレーニングを続けていったのですが、高校生くらいになると骨格が次第に固まってきます。私は骨格が小さく、身長も低くて、高校に入ったばかりの頃は体重が42㎏くらいしかありませんでした。ただ、小さいながらも、ある程度の筋肉はついていたんです。そしてあるとき、ラグビー部に所属していた友人たちから、ウエイトトレーニングを一緒にやらないかと誘われました。私には私なりに自己流のトレーニングをやってきたというプライドがあって、ベンチプレスなんて腕立て伏せの体勢をひっくり返したようなものだろうと。そう思って、その誘いには乗りませんでした。
――そこではスルーしたのですね。
須江 でも、2年生になったあるとき、ふらっと体育館のトレーニング室に行ってみたら、友人たちが50㎏ほどのベンチプレスをヒョイヒョイとやっていたんです。そんなの俺にだってできると、そう思ってやってみたら、グラグラして全く軌道が定まらなかったんです。それがすごくショックでした。当時は連続で腕立て伏せが200回できていたのですが、そんなのは関係ないんだと。私は力が強くなりたかったのに、ああいった自己流トレーニングだけではダメなんだと気づきました。そこで一気に火がついた感じです。授業と授業の合間、昼休み、放課後にトレーニングをやるようになって、体重は高校3年間の間で10㎏増えました。
――トレーニングの情報はどのようにして得ていたのですか。
須江 月刊ボディビルディングと洋書のマッスル&フィットネスです。まだ日本語版がない時代でしたね。情報がそれしかなかったので、何度も繰り返して読んでいました。そこに書かれている文章だけでなく、行間も読んで想像を膨らませていましたね。月ボには各地方大会で優勝した選手たちのトレーニング方法や食事内容を紹介するコーナーがあったんです。こんなに食べなきゃダメなんだとか、こんなに重たいものを挙げられるだとか、刺激を受けていました。学生大会の記事を見ながら、俺も大学に進学したらボディビル部に入って学生選手権を4連覇してやると。
――法政大学に進学されたのは、ボディビル部があったというのも大きな理由だったのでしょうか。
須江 それもひとつでした。受験しようとしていた大学にボディビル部があるかどうかは確認しました。そして私が合格した学校の中でたまたまボディビル部があったのが法政大学だったんです。
――現在の所属ジムであるサンプレイに入会されたのは?
須江 大学2年生のときです。宮畑(豊)会長が各大学のボディビル部のポーズ指導をしてくれていたんです。私も1年生のときに教わり、そこで「この人のジムでトレーニングしたい」と思いました。
――1年生時に全日本学生選手権で5位になりました。これがデビュー戦になるのでしょうか?
須江 いえ、その前に1年目の選手を対象にした新人戦があったんです。その試合前に宮畑会長と石井直方先生にポーズを見ていただけて、石井先生からは「君が優勝だね」と言われたのですが、結果は3位でした。当時の私は考えも甘く、トレーニングの技術も未熟でした。
――このころ、トレーニングを指導してくれる方はいたのですか。
須江 技は見て盗んで覚える、といった職人さんの世界のような感じでした。他のジムもおそらくそうだったと思うのですが、特定のパートナーがいなくても、例えばベンチプレスの台が1台しかなかったとしたら、「一緒にお願いします」とお互いに補助しあいながら会員同士で交互にやっていたんです。そうした中で技術を盗みながら、みんなで高めあっていました。今は「一緒にお願いします」とはなかなか言い出しづらい時代になりましたが、今の私のジムではそうした昔の設備の使い方、そしてそこから生まれる絆もお伝えできればと思っています。
――2年生の全日本は?
須江 減量せずに出場して、18位でした。高校生の時に大学選手権を4連覇しようと思っていたんですが、結局それは無理でした。中部大学に私より1学年上の選手で牧志幸治さんという方がいて、この方は筋量がものすごくあったんです。私が5位になったときに牧志さんは2位で、これは来年は勝てないと思い、翌年はバルクアップに充てました。翌年、私は関東では3位で、そこで優勝したのが東京大学の外村修一さんでした。当時、法政大学には私の2つ上の先輩に杉山理理さんがいて、その方が2位。杉山先輩は3年生で全日本を優勝していて、その年の全日本では2連覇がかかっていたんですが、前年準優勝の牧志選手が優勝、関東を制した外村選手が2位となり、連覇を阻止されました。そして私が3年生になったときに西日本ではやはり牧志さんが優勝して、東日本では私が優勝しました。全日本には杉山先輩の無念を晴らすつもりで臨みました。結局、牧志さんは出場されなかったんですが、おかげで3年生と4年生で2連覇という結果を残すことができました。
――そこから須江伝説が始まります。90年1月号の本誌には「末恐ろしい須江」というコピーが躍りました。
須江 それは実は会場で、当時の先輩から「須江! 末恐ろしいやつだ!」という掛け声がかかっていたんです。
――元ネタは掛け声だったんですね!?
須江 そうなんです、学生特有の。「須江ルジオ・オリバー」もそうです。
―― そして卒業後に就職されるわけですが、警察職員を選んだ理由は何だったのでしょう。
須江 最初は法政大学の職員の試験に合格していたんですが、留年したのでそれが駄目になったんです。そこで先の人生を考えたときに、「このままでいいのだろうか?」という、モヤモヤとした不安感が湧いてきて…。その時代の空気というものもあったのかもしれないですが、このまま惰性で生きていっていいのだろうかと。
――その時代は、ちょうどバブルが崩壊したころでした。
須江「自分」というものがはっきりとは持てていなかったんですね。そして留年したことで結果的に「自分」というものを考える時間ができ、人の生死と関わる警察という仕事であれば嘘がない人間関係の中で生きていけるのではないかと思ったんです。退職するまでの30年間は真剣と人間に向き合う、良い時間を過ごさせていただいたと思います。
――社会人になり、トレーニングのプライオリティーはどのように考えていたのでしょう。
須江 トレーニングは続けたかったです。ただ若い頃は他にも色々な事に興味を抱いて、当時ハマっていたのはカメラと自転車でした。ボディビルだけではなく、やりたいことがあるのなら積極的にやろうと思っていました。写真にハマった経験はポーズの取り方であったり光の使い方であったり、ボディビルにもプラスに作用しました。
また、私は音楽も好きで結構な数のレコードを集めていたのですが、オーディオに詳しい友人がいて、音の聴き方についてもすごく事細かに説明してくれたんです。それが今になってみればボディビルにも役に立っているように思います。
――どういったことでしょう。
須江 例えば、ひとつの曲はいろんな音が組み合わさって構成されていて、その中のひとつでも音が欠けたら曲として成立しないんです。そういうことが分かるようになりました。これは、フリーポーズを考える際にすごく参考になっています。
――須江選手といえば、情熱的かつ芸術的なフリーポーズにも定評があります。原点にはそういう経験があるんですね。
須江 そうなんです。自然と「ボディビル」というものを通して、いろんなものを見たり、考えたりするようになりました。何かひとつ打ち込むものがあって、たとえ他のものにも興味を持ったとしても、それは自分の打ち込んでいるものにも活かせる。だから、人生には無駄というものはないんじゃないかという気もしています。
――そうした中、95年には日本選手権で3位まで順位を上げました。
須江 その日本選手権への出場を決めたのは大会の2カ月前でした。その前まではひと月ほど全くトレーニングをしておらず、前年も試合には出場していません。つまり、当時のボディビルに対する熱意はその程度だったんです。「いつでも出られる」「少しくらいトレーニングを休んでも、すぐに元に戻る」。そうタカをくくっていました。そして8月の頭に、宮畑会長から「今年は出よう」と。当時の私は65㎏くらいまで体重が落ちていており、出るからには本気で取り組まないと間に合いません。一方で、頭のどこかには「少しやれば戻る」という意識もありました。そこから2カ月間、大会に出るのはこれが最後というつもりで取り組んで、身体も戻り、良い状態で出場することができました。でも、そこでバーンアウトしてしまったんです。
――燃え尽きてしまったのですね。
須江 そして、その翌年に私は結婚したのですが、妻はボディビルのことは何も知りません。彼女をボディビルの世界に引きずり込むのは酷だと思いました。彼女はボディビルダーの私とではなく、一人の人間としての私と結婚してくれたんです。だから、まずは家庭を作ることを優先し、ボディビルは一切やめようと。私は人生は掛け算だと思っています。トレーニングをやるんだったら、トレーニングが100%、家庭も100%、仕事ももちろん1 0 0 % で取り組んで、「100%×100%×100%」で、やっと全てが100%になるんです。ひとつでも0%があると、全てが0%になってしまいます。だから、中途半端にやるくらいだったら、もうやめてしまおうと思いました。そこからは、ボディビルとは一切関わりのない生活を送っていました。
―― しかし、7年の空白期間を経て2 0 0 2 年に復帰を果たします。2001年の3月からトレーニングを再開しました。
次回へ続く…
すえ・まさひろ
1967年2月27日生まれ、埼玉県出身。身長161cm体重70㎏(オン)77kg(オフ)学生選手権で2連覇を果たしてから現在まで、その象徴的な背中で“伝説”とまで称される日本屈指のボディビルダー。埼玉県東松山市に、昨年10月にオープンした自身のジム『GYM SUE』を構える。
主な戦績:
1988・1989年 全日本学生ボディビル選手権優勝
1993年 選抜70㎏級優勝
2006年 日本クラス別選手権75㎏級優勝
2008・2009年 日本選手権2位
執筆者:藤本かずまさ
IRONMAN等を中心にトレーニング系メディア、書籍で執筆・編集活動を展開中。好きな言葉は「血中アミノ酸濃度」「同化作用」。株式会社プッシュアップ代表。