日本ボディビル界の生ける伝説「誰も知らない小沼敏雄」 世界編

ミスター日本14回優勝という、今後誰も成し得ないであろうという高みに身を置く小沼敏雄選手。そんな小沼敏雄選手の世界への挑戦を紹介する。

[IRONMAN2014年9月号]

目標は世界

IM ここでは小沼敏雄選手がボディビルと出会い、ミスター日本で初優勝するまでの経緯をお聞かせいただきました。

小沼 ミスター日本で連覇しようという気持ちは全くありませんでした。あくまで世界に出るための大会と考えていました。「世界一になる」という気持ちがあったから出続けただけです。

IM 当時はミスター日本に小沼選手が出れば、勝って当たり前といわれていた時代ですね。

小沼 4回くらい優勝したころから、勝っても周りからは喜ばれていない雰囲気を感じていました。そのころはもう目標をアジアや世界に向けていましたね。

IM アジア選手権では’88年、’89年と連続で優勝されましたが、世界では7~9位あたりの順位が続きました。

小沼 世界ではミドル級(80㎏級)で出ていましたが、筋量が犠牲になっている感じはありました。82㎏でバリバリに仕上げる自信はあったのですが、そこから80㎏に落とすとやはり細さが目立ちました。身長もこのクラスにしては高かった(175㎝)ので余計に細く見えていたと思います。上位の選手は皆170㎝以下でした。

IM それでライトヘビー級(90㎏級)にも出場されたんですね。

小沼 ミドル級での限界を感じ、ここで上にいかないと成長はないと思い、ライトヘビー級に上げました。当時85㎏級はなくて、80㎏級の次がいきなり90㎏級だったんです。結局ライトヘビー級では予選を通ることはできませんでしたが、上を目指す意識があったから、長くやってこられたのかもしれません。

IM 世界というと、ドーピングの問題がありますが、当時も怪しい選手はいたと聞きます。

小沼 ’86年の世界選手権からドーピング検査が始まりましたが、年によって検査する、しないのばらつきがあった気はします。優勝者をほぼ全員チェックするなど、検査を厳しくした年は大抵、違反者が何人も出ていました。もちろん日本人選手は全員ナチュラルでした。

IM ドーピング検査があったとはいえ、ナチュラルで頑張ってきた選手が公平に戦える時代ではなかったのですね。

小沼 世界ではみんな薬を使っているのかなと残念に思ったこともあります。オリンピアの選手もみんなナチュラルだと信じていたくらいですから。ステロイド使用は、ドーピング検査が導入されるまでは、倫理上はともかくルールでは規制されていませんでしたし、検査を導入したからといって、数年間で全員がナチュラルになるのは難しいだろうなと思っていました。

ケガから得たもの

IM 今までの試合で印象深かったコンテストをいくつか教えていただけますか?

小沼 一番印象に残っているのは’92年のアジア・プロアマクラシックです。アジア大会に勝ったプロとアマチュアの選手がオーバーオールで戦う大会でした。当時の世界チャンピオンや、後々世界を取った選手も出ていて、その中で3位になれたというのが良い思い出です。

IM ミスター日本で特に思い出に残っている試合は?

小沼 たくさん出ていますし(笑)、どれか一つに絞るのは難しいですが、初優勝した’85年。それと’93年のミスター日本は特に印象に残っています。

IM ’93年ミスター日本というと、たしか大円筋を切るケガを負った年の大会ですね。

小沼 6月に右の大円筋の筋断裂をしてしまい、当時の雑誌のインタビューでも今年は出ないというような返答をしていました。まったく腕も動かなかったですし、ジムで補助するときも片手でしかできませんでした。今年は新しいチャンピオンが生まれるんだなと、他人事のように考えていました。

IM 結果的には出場して、V8を決めたわけですが、出場を決意したきっかけはあったのでしょうか?

小沼 1カ月くらいトレーニングを一切やめて、食べたいものを食べていました。それが良かったんです。痛みもだいぶ軽くなってきたので、この条件下でどこまでできるかチャレンジしたくなったんです。正直、負けは覚悟していました。試合では髙西文利さんに決勝で1ポイント差まで迫られましたが、なんとか勝てたという試合でした。それまでは勝って当たり前と思われていたので、このときの優勝は私にとって非常に価値あるものでした。

IM ケガをしたときはまず休むということの大切さを痛感されたのですね。痛くても我慢してやってしまう方は多いです。

小沼 良くなったと思ってトレーニングすると、大抵また同じ部分を痛めてしまいます。それを繰り返すと本当にダメになってしまいます。ケガをしたらまずは休養することを心がけてほしいです。

新たな世代

IM ’90年中盤に入ると、新たな若い選手が現れ始めました。小沼選手が特に注目していた選手はいますか?

小沼 谷野義弘選手は中野ヘルスクラブ所属で成長を間近で見てきて、いつミスター日本をとってもおかしくないと思っていました。それから須江正尋選手。脚が弱いといわれていますが、上半身は誰がなんといおうと一番です。ポーズの見せ方も上手で、すごい選手が出てきたなと脅威に感じました。

IM ’99年に14回目の優勝を果たし、それが小沼選手にとって最後のミスター日本になりました。翌年から出るのをやめた理由は何だったのですか?

小沼 次はもう勝てないと思ったからです。谷野選手も毎年順位を上げてきて、’98年には田代誠選手もいきなり出てきて3位に入るし、合戸孝二選手の存在感も大きかったです。その選手たちに今後勝てるような気がしなかったのです。だからといって、今まで14回も優勝した『ミスター日本』のステージ上では負けたくなかったんです。だからミスター日本には翌年から出なかったのです。

IM それでマスターズの大会に目標を移したのですね。

小沼 ミスター日本での戦いをやめたことで、当然ながら一般の世界大会への出場もなくなりました。今後はマスターズの世界大会で優勝しようと、目標を移したんです。

もう壊れてもいい

IM ミスター日本の引退から2年後の、’02年日本クラス別選手権85㎏級で、相川浩一選手に敗北を喫しました。当時ボディビルがアジアンゲームズの種目に加えられ、その代表権がかかった大切な試合でした。

小沼 アジアンゲームズに出られる機会はなかなかないですし、これはチャンレジしてみようかなと思って出場しましたが、負けてしまいました。このころからケガで通常のスクワットもできなくなったので、セイフティースクワットバーを使ってトレーニングしていましたが、やっぱり全体的に筋肉は落ちていました。

IM ミスター日本で初優勝以来、日本人選手に一度も負けなかった小沼敏雄選手が敗れたのは衝撃的でした。この大会後は、一般の部には出場されていないですね。

小沼 これで目標を完全に世界マスターズ一本に絞ったんです。アジアオリンピックの出場も消え、日本でも負けました。私に残された道は世界マスターズだけになりました。

IM 日本クラス別から世界マスターズまでのトレーニングのあまりの激しさに、刹那的な雰囲気を感じた人もいたと聞いています。

小沼 壊れてもいいと思ってトレーニングをしたんです。ちょうどそのころ、中野ヘルスクラブが翌年に閉館することを知らされました。職場もなくなり、練習場所も失うわけです。自分の競技人生もこれで終わりだと思い、もうどうなってもいいという気持ちで追い込みました。

IM MMJ製作の『ミスターボディビルディング・小沼敏雄DVD』に収録されているトレーニングですね。年中ああいうハードなトレーニングをされているのかと思っていました……。

小沼 あんな練習が続けられるはずありません。若い人だったら別ですが、普通にマネしたら絶対壊れます。なにせ壊れてもいいと思ってやっていましたから。上腕二頭筋がブチブチ切れていくのが分かりましたが、構わず続けました。胸も脚も痛めて悪化していきました。これでボディビルをやめよう、最後にしようという気持ちだったんです。

IM そして7月の日本クラス別から4カ月後、ポルトガルで開催された世界マスターズ40歳以上の部80㎏級で見事優勝されました。一般の部でないものの、世界チャンピオンとして『ミスターユニバース』の称号を手にされたのですね。

小沼 体の状態は満足できるものではなく、運で勝てたのです。世界マスターズの中では’99年の体が一番でしたが、そのときよりだいぶ細くなっていました。前年の大会でドーピング検査が例年より多く実施されたことで、’02年は“怪しい選手”が皆出てこなかったのです。それで勝てたともいえます。

IM 日本での敗北後に手にした世界のタイトルを、中野ヘルスクラブの皆さんはさぞ喜んでくれたのでないでしょうか?

小沼 そりゃもう喜んでくれましたよ。ジムのみんなが祝勝会も開いてくれてうれしかったです。山岸(秀匡)君が自分のことのように喜んでくれたのを覚えています。「負けて勝つということに価値がありますよ」って。

負けても大会に出る理由

IM ’03年に中野ヘルスクラブ閉館すると同時期に『ゴールドジム』が中野にオープンすることになりました。

小沼 ゴールドジムの手塚社長からご提案をいただき、ゴールドジムで私を雇っていただけることになりました。中野ヘルスクラブの会員さんもゴールドジムに移籍することになり、場所は変わりましたが私は引き続きトレーナーとして仕事ができることになったのです。その他に、重村(尚)さんから赤羽トレーニングセンターを引き継がないかと声をかけていただいたりしたんですが、ジム経営をしながら大会に出るのは難しいと思い、お断りさせていただきました。

IM ゴールドジムに就職後も、大会も出場されていましたが、すでに世界マスターズで優勝されていますし、コンテストに出続けるモチベーションは何だったのでしょうか?

小沼 大会が好きなんです。やっぱり目標がないとつまらないですし、肩や大胸筋はケガが治らなくて全然トレーニングができない状態でしたが、それでも出ていました。トレーナーという仕事上、常に現役でありたいという考えもありました。実践するからこそ気付くことがあるのです。ケガでできない種目があっても代わりになる種目を探したり、力の入れ方を変えてみたり、より考えた練習ができるようになります。どこも痛くなかったら何も考えないでやっていたと思います。もっといいトレーニングがないかを、日夜考えています。

IM 若いころに気付かなかったことが分かってきたのですね。

小沼 マスターズの選手で急に大会に出なくなるのは大体ケガが原因なんです。いちばん怖いのがケガをして気持ちが衰えてしまうことです。好きな種目ができなくなったらやめるという方もいますが、工夫しだいでトレーニングはできますし、簡単にあきらめてはいけません。動かしたほうがいいですと伝えたいです。私も現在、股関節のケガでポーズがとれないため、今年は大会出場しませんが、ポーズがとれるようになれば出るつもりです。

IM 大変失礼ですが、50歳をこえてからは日本マスターズで優勝を逃すことも出てきました。それでも大会が楽しいという気持ちにお変わりはないですか?

小沼 楽しいですね。もう全盛の体ではないと分かっていますし、昔ほど勝ち負けにこだわらなくなりました。私に勝ったことで心底喜んでくれる人もいるんです。難波(文義)さんからは「やっと勝てた」と涙を流しながら言われました。昔は勝ち続けていましたが、今は負けの味も知りました。負けるつもりで大会に出ることはありませんが、結果的に私を負かすことで喜ぶ方もいると思うと、今後もコンテストに挑戦しようという気になりますね。

小沼敏雄(こぬま・としお)
1959年1月2日生まれ。埼玉県出身。
日本ボディビル選手権14回優勝という金字塔を打ち立てた、日本ボディビル界の生ける伝説。世界選手権にも幾度となく挑戦し、一般の部では7位が最高だったものの、2002年世界マスターズボディビル選手権40歳以上の部でついに世界一に輝いた。仕事はジムのトレーナー。大学在学中から現在までの33年間、一貫してジムでトレーニングを教えている。アルバイト時代のワールドトレーニングセンター、その後就職した中野ヘルスクラブを経て、現在はゴールドジムのアドバンストレーナーとして指導を行っている。

 

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