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【発掘】女子ボクシング金メダリスト入江聖奈の台湾拳撃修行

「日本一人口の少ない県」を自負する鳥取から生まれたボクシング界屈指の逸材、入江聖奈(21=日本体育大学)が今年の東京五輪でメダル獲得を目指す上で、伊田武志氏との師弟関係は不可欠だった。中でも特筆すべき指導は「敵の匠に教えを請う」というもの。スパイ行為とも疑われかねないその方針の現場となった台湾で、両者とそのライバル師弟に密着取材した様子をご紹介する(Fight&Life Vol.77 2020年4月号より)。

取材・文・撮影_善理俊哉

▶【写真】入江聖奈選手の写真6点

入江は、与えられた課題を順調にクリアし続けてきた日本女子ボクシング史上屈指の優等生だ。母親の部屋にあったボクシング漫画『がんばれ元気』を手に取ったことがきっかけで格闘技に目覚め、地元、鳥取・米子にあるシュガーナックルボクシングジムに入門した小学校時代。実戦練習の相手は多くなかったが「指導はやみくもな実戦の数より、適確にパターンを習得させることだ」と語る伊田武志会長の教育のもとで、2017年と2018年の世界ユース選手権で2大会連続の銅メダル獲得を果たした。おととしの全日本女子ボクシング選手権では、高校生でありながら成年(大学生や社会人)の部で優勝。多彩な左ジャブとノーモーションで放つ右ストレートを駆使し、準決勝では、長年、大会無敗を誇っていた釘宮智子(警視庁)を攻略。「新時代」をアピールした。

しかし、この半月後、入江には大きな試練が待っていた。世界選手権の金メダリストであるリン・ユーティン(中華台北)が、趣味であるスキーも兼ねて、親交のある岩手に来ることになったのだ。ここで3分3ラウンドのエキシビションマッチとして、両者は拳を交えることが決まった。

ゴングが鳴ると、序盤から異彩を放ったのはリンの「スイッチ戦法」だった。175センチの長身はしきりに左右の構えを切り替えられ、入江の思考回路はこれを追いきれない。そして最終の第3ラウンド、リンの左アッパーで入江のアゴが跳ねあがると、そこから怒涛のラッシュで、入江はダウンカウントを取られた。完敗を痛感した入江は「最後に攻撃の手を緩めてくれなかったら、レフェリーストップに持ち込まれていた」と脱帽気味。だがセコンドに就いた伊田会長はさらに大きなカルチャーショックを受けていたかも知れない。

「リン選手のパンチにクロスで打ち返していけば、聖奈が馬力で勝つチャンスはあると正直期待していた。でも実際は下がったら追ってくるのは勿論、こちらが追うと下がりながらでも強いパンチを打ってくる。あの巧みなスイッチがある以上、悪い体勢に持ち込むのは至難の業です」

同会長が気になったのは、入江に叩き込んできた自身のボクシング理論が、リンの「天才的な感性」と「指導で染み付けられた理論」のどちらに太刀打ちできなかったのか。最初は前者だと思っていたが、何度も映像を見直すと、次第に後者ではないかと思うようになった。

この思いはある日、リンの師であるジョン・ジージャン氏への唐突な申し出に発展する。『聖奈にボクシングを教えてあげてください』ジョン氏の回答は「OK」。ただ、後で聞いた話では、一方でリンは「入江は将来自分を脅かす可能性を持つ逸材だから」と不満そうだったと言う。それをジョン氏は「良いものはシェアするのが私の方針だから」と師弟の上下関係で押しきったそうだ。

入江にはすでに東京五輪への強化プログラムも多く組まれてあり、通学先の日本体育大学で授業や試験もある。そのため、間を縫うようなこの台湾滞在は長くても3泊4日が限界だった。時間が足りないと思ったジョン氏は「到着した日は夕方まで別の用があるが、夜から練習しましょう」と提案。台湾に到着すると、その用とは国際トーナメントの決勝戦だった。リンは危なげなく優勝すると、着替えて入江らと新北市に移動。練習場に招き入れた。

練習前にジョン氏が入江に「エキシビションの時から気になっていたけど、スタミナが切れたとき、君はどうして前にバランスが崩れるか分かるかい?」と聞いてきた。スタミナが切れれば、踏ん張りは利きづらくなる。それ以上のことを考えていなかった入江の右肩に手を置き、ジョン氏は「右ストレートが強すぎるからだ」と言った。右肩周りの筋肉だけがアンバランスに発達しているため、疲れると右ストレートの威力に左の足首が耐えられないと分析する。「3日間の合宿じゃ、足首は補強しきれないね」とジョン氏は宿題を課すよう付け加えた。

リンに限らず、ジョン氏の指導にはとにかく休みがない。隙あらば練習か試合のどちらかが組まれている。しかし近年の台湾全体にこの傾向があるため、選手たちはそれを「当たり前」だと納得できるのかも知れない。実は伊田会長の方針もこれと遠くはなかった。

「私はジムでよく言っているのは〝凡人の努力は時間で決まる〟ということ。もちろん長いだけでも意味がない。論理的、効率的でいかに長いか。オーバーワークに思えるかも知れないけど、私は確かな基礎知識をもってメニューを練っています。一つの筋肉がそろそろ限界になるタイミングで、他の筋肉を使うメニューに移す。多くのパターンを丁寧に教えていったら、指導は2時間弱では終わらないですよ」特殊に思えたリンのスイッチ戦法もきめ細かく理論化されていて、そのために必要な筋力、技量を習得するだけの信頼性がこの二人には構築されている。

伊田会長にそう絶賛されると、ジョン氏が過去の苦労を振り返った。「私は選手時代、国際大会に行けば、台湾がいかに弱いか痛感させられてばかりでした。国内で受け継がれてきた技術では通用しないと悟った。だから国際大会に行ったら、外国の指導者たちに教えを求めることに決めていたんです。どこの国のコーチも気軽にノウハウを教えてくれました。選手引退後、もう一度学校でスポーツ科学の知識を学び直し、すべてが昇華され、リンという逸材の成績で結果を出せていると思っています」

わずか3日間の短期合宿で噛み砕けたジョン氏の指導は、入江にとってさほど多くなかっただろう。ただ、理解不能だったスイッチ戦法のメカニズムだけは最低限知ることができた。そのため、最後の練習メニューだったスパーリングでは前回よりも戸惑いがなかった。「アゴが上がりすぎて、首が鞭打ちになりそう(笑)」とボヤいた一方で、伊田会長も「今回は決定打をもらわなかった」と手応えを噛み締めていた。「岩手県の時から君は確実に強くなっている。差を縮めてくれたおかげでリンも刺激されている」とお礼を言ってきたジョン氏に入江は誓った。

「他の選手に負けたら失礼なので、恩返しのためにも、必ずリンさんと東京五輪の決勝で戦います」

3月上旬、入江もリンも東京五輪のアジア・オセアニア予選に出場する。切磋琢磨する両者はここで一度対戦する可能性もある。

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